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第十八話 葵・慕情 ③
日は西へ沈み、空は橙から紫陽花色に変わっていく。厨房での出来事から少し経ち、
しん……と静まり返った客室の唯一のソファー席に葵と愁は二人寄り添い座っている。
「ぐしゅ……ひっく…………」
変えられない自らの桎梏 となった過去を告げ、叶うわけないと決めつけていた内なる恋心を告げ、
“ましゃか……まさか…………”
悲しみに押し潰されそうになり泣き、のち、拒絶されてもおかしくない自らを一切の躊躇もなく、心変わりもなく、やさしく受け止めてくれた愁に感極まって大泣き。
“こんな幸せなの……知らなぃ……泣きたくないのに……”
なにはともあれ涙を流すことでしか気持ちを収めることが出来ず、
「大丈夫ですか……? なにか飲み物でも……」
「ぅ……嬉しいのに……涙が、涙が……ぐしゅ……止まりませんょ……」
“河邊くん……やさしぃ……”
「大丈夫です……泣きやむまで、一緒に居させてもらいまから……ぁ」
「ひっく……んっ……」
愁は、涙が溢れればハンカチでそっと拭いてくれて、やさしい言葉も掛けてくれて、目が合うとふんわりと花のつぼみがほころぶように微笑んでくれて、
“こんなにやさしいの……ずるぃ……年上の包容力とか、全然発揮できなぃ……泣いてばっかり……そもそも僕にあるのかどうかもわかんないけど……河邊君のほうが……ちゃんとしてる……ちゃんと……あぁ……”
「カッコぃぃ……」
「はい……? 」
「違ッ!? な、なんでも……」
見惚れていた。百花繚乱ひらひらと、魅力
余すことなく咲き乱れる美少年、
「ぁ、あの、ありがと……ぅ……ごめんね……帰りも遅くなっちゃって……」
「俺は……その、最近あまりお話出来てなかったので、正直……寂しかったりして……俺も離れたくないです……」
「はぅ……♡ 」
“カッコぃ……のに、そんな可愛いの……だめだよ……下手したら僕、一生君から離れられなくなちゃうかも……”
きらきらし彼に見詰められ、そんな風に言われれば、胸の奥がぼんやりと光るように甘美にうずいて、
「じゃ……じゃあ……もう少しだけ……遅くなってもいい……? 」
「は、はい……全然、その方が……あっ……」
時間はゆららかに止まり、周囲は透明になって、互いの指先が強く触れ……
「嬉しぃ……手……つないでも……いい……? 」
「ッ……はいっ」
「ありがと……♡ 」
緊張に震える手を握ってくれた。力まかせではなく包み込むようなやさしさと、ほっこりとするあたたかさが手先から流れ込んできて、自らの身体の火照りと混じりあい高まってゆくのを感じる。
「河邊くん……」
「涼風さん……俺……ぇと……」
「うん……僕も……おんなじだ……」
言葉数は少なくとも、互いに今なにがしたいのか理解しあえた気がして、吐息を感じあえる距離に唇があって、
「ぃ……いいょ……」
嬉しくて涙がいっぱいの瞳を見られるのが
恥ずかしく、目蓋をギュッと閉じれば
少しぎこちなく引き寄せられて、
チュッ……
驚くほど柔らかな唇のふれあい、気持ちのたっぷりと込もった、やさしくて穏やかで慣れてなくて、それでいて一瞬で心を溶かされそうな熱い口付け……
“とってもふわふわ…………大好きな人とのキスってこんな…………”
それは唐突で驚きしかなかったあの時とは
次元の違って、唇をふれあわせるだけで
恋し恋されていることを実感させてくれて、
「んッ……は……ぁ……♡ 」
唇を離しても頬には少し石鹸の匂いがする
やさしいぬくもりが残ってくれてて、ゆると目蓋を開けるとそれは愁の手で……
「きれい……」
可哀想なくらい真っ赤な顔で、一言発するのがやっとのようで、
“河邊くん……どうしてくれるのさ……僕、男なのに……君に言われてドキドキ……
止まんなくなってる……♡♡ ”
そんな可愛いらしいところを見せつけられて、胸が愁に対するやさしい思いでいっぱいになって、頬に添えられたままの手に自らの手を重ねてて、このまま続きを……
「ぁ……の……もっと、し…………」
くぅぅぅ…………
そんなロマンチックの絶頂みたいなタイミングでも、身体は正直で……
葵のお腹が、かすかに情けない音を発した。
「てえっっッ!? 」
愁を思い、悩みまともに食事を取れなかった日々は終焉を迎え、安寧という蜜液をたっぷり注がれた身体が正常になったサイン。自らのお腹を押さえる葵は、これまで以上に
カァァ……と、耳まで熱くなった……
「にゃっ……なんでこんな一番大切な時に……!? 」
「プッ……フフッ……」
その姿に、さっきまで頬に添えられていた手で口元を押さえ笑っている愁。さっきまでの羞恥はどこ吹く風と言うように、表情は隠しているつもりだろうが、肩はぷるぷると震えているので確実に笑っている。
「わ、笑わないでょ……」
「ッ……♪ すいません、あんまりにも可愛かったので……つい……フフッ♪ 」
「可愛いっ……て……僕、一応年上なんだけど……」
“体裁みたいなの……今さらかな……綺麗とか
可愛いとか……男なのに……君に言われて心の底から喜んじゃってる……でも、今の僕には君のほうが……どうしても可愛く見えちゃうんだけどな……”
目もあやに乱れ咲く美少年、紅顔で微笑みを浮かべるあの唇と先ほどまで口付けしていたと思うと、
“反則だょ……もっとしてほしいって思っちゃう……さっきみたいにやさしく抱きしめられて
好きっていっぱい言ってほしいな……”
恋しくて恋しくて、その仕草の一つ一つにまで目を細め、恍惚と眺め入っている最中に
頭の中でピンと弾ける音がする。
“言い切れなかったけど、キスも……もうちょっとしてほしぃ……甘えるって言ったし、今
お願いすれば……”
そんな胸の内など知らない愁は「あっ……」と何かを思い出したのか声を発すると、
「もしお腹空いてるなら、少しだけ待ってもらえますか? 」
「えっ……? 」
「実はとっても美味しそうなアップルパイがあるんです、涼風さんの為に用意してて……」
「ほ、ホントッ!? 」
アップルパイと聞いた瞬間、思考が色気から食い気へ明確にスイッチが切り替わって、
唇がパァッと笑いの形を作っている。
「わぁぁッ嬉しいッ♪ パイ好きッ、大好きなんだっ……ありがとっ!! 」
「お口にあえばいいんですが……飲み物は甘めのアイスミルクで大丈夫ですか? 」
「うんッ! さすが河邊くん……僕が今飲みたいの、わかっちゃうんだッ♪ 」
そう言うと微笑みを浮かべている愁の顔は、
赤く熟れた梅の実みたいな色になって、
「ぁ……いえ、それは……涼風さん、いつも
美味しそうに飲んでるのアイスミルクで、
その時のお顔、とっても可愛いから……覚えてるだけで……」
「はぅ……」
“そんなとこまで見てたんだ、はにかんで……やっぱり君の方が可愛ぃ……”
「ぁは、見すぎですね……すいません、では
ご用意しますので……ぁ……」
ソファから立ち上がろうとして腰を上げたあたりでピタリと止まった、
「ど、どしたの……? 」
「いえ、手……離したくないなって……」
言われるまで気づかなかった。愁と手を繋いでいるのがあまりにナチュラルで、
「ふふっ……おかしいですね……これから、
いつでも繋げるのに……今日の俺、ちょっと変です……では……」
「あっ……」
その手をほどかれると寂しいという感情が
沸き上がって、愁もどこか名残惜しそうに
後ずさって厨房へ行ってしまい、そうして
一人ポツンと客室に残されてしまった。
「酷ぃ……こんなドキドキさせるだけさせて
……放置なんてっ……もぉ……」
独り言を呟き、ぽすっ……とソファの背にもたれ、吹き抜けの高い天井を見上げ、まだぬくもりの残る手のひらをかざし、準備している愁を想像するだけで愛おしくなり、
「ふふっ……♪ 」
“戻ってきたら……いっぱい甘えてやる……
甘えるって宣言したもん……恋人として当然の権利だよね……♪ ”
今までに味わったことのない、ふわふわとした多幸感が全身にみなぎって知らぬ間に微笑んでいる。
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