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第二十話 凛

凛は、長く時間をかけ綿密な計算の上に築きあげた幻想の道があっという間に消えてなくなった感覚に理解が追いつかず、頭の中に大量の?が浮かびながらも先程は只々、兄の言葉に頷くしか出来なかった。 「ッ━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ッッ」 ベッドにうつ伏せ枕に唇を押し付けて、声にしてはならないような言葉を吐き出す凛。 「はぁ……はぁ……なんでッ……どこで予定が ……は……ぁ……今日は僕が……相手はッ……」 一階からは兄がシャワーを浴びる水音が微かに聴こえる、いつもなら覗きに行く、あわよくば浴室から出たところへ偶然を装い脱衣室に入り、恥じらう兄を脳裏に焼き付けたりもするが今はそれどころではない。 “くぅぅ……一体どこの誰なんだぁぁ…… 僕の兄さんにぃいぃ……手をつけた泥棒猫ッッ……” ふかふかなベッドの白いシーツを掴み、引きちぎれそうなほど握りしめ、込み上げてくる怒りをかろうじてこらえる。 “全部……全部チェックした……通勤のルートも電車でもバスでもないし、客層も歳上のおじさんとか、おばさんばかり……店長だって兄さんよりだいぶ歳上…………ッ!? ” パッ……と稲妻のように閃いた、早朝の通勤で他人と触れ合う機会は少ない、恋人というには客層も歳が離れている、ならば答えは自ずと絞られ、 「店長って……どんな人? 前に一度だけ、働く兄さんを見に行った時は、忙しそうで厨房から出て来なかった……兄さんの話じゃ…… けっこう歳上……二十七~八歳……男の人で、良い人だとしか……」 バラバラにちらばるパズルのピースが一つの図柄を構成していくように考えがまとまっていき、 “いいやッ……僕の兄さんが歳上なんて選ぶ訳がない……教えてあげた色んなものに、そんな趣旨のやつはないし……” 完成しかけた正解の構成を再度バラバラへ、 そしてガバッとベッドから起き上がり、自身の身体を抱きしめ…… “何より……僕の身体の感触を、毎朝兄さんに刷り込んでるんだっ……今さら歳上の身体に 興味なんか……そんなこと有るわけない…… とりあえず……” 「すーっ、は━━ッ……」 深呼吸、荒ぶる気持ちを飲み込みゆっくりと吐き出せば、凛の心は徐々に冷静さを取り戻していく。 “不覚……” ボスッ……と起こした身体を重力に任せて ベッドに沈め、枕に顔を埋め…… “兄さんは、僕のこと大好きで、見てくれてると思ってた……だって僕は、子供の頃からずっと兄さんのこと大好きだったし……” まぶたを閉じれば、今さっきそこであったかのように、はっきりと記憶に浮かび上がる、怒るなんて想像も出来ず、いつもやさしい今の柔らかな印象とは全然違った…… “そういえば、小さい時の兄さん……なんか……いっつもなに考えてるか分かんなくて……無口で……誰にも興味ない感じで……でも……” 幼き日の兄を思い出すと、凛は指先でこめかみを軽く押さえた。記憶というものは好きなものだけでなく、時に様々な重い付属物を従えて蘇ってくるもので…… “放課後、僕が……いつもみたいに上級生にいじめられてたら……兄さんが突然あいだに入って……僕らより全然大きい上級生五人も居たのに、全員ぼっこぼこにしちゃって……” 騒ぎになった事、父親が作業着で学校に来て教師や、激怒し罵詈雑言を吐く相手の親へ 頭を深々と下げ謝罪している姿…… “父さん以外の大人は、みんな兄さんを気味悪いって眼で見てた……先生達なんか、僕が叩かれてても……無視してたくせにッ……” 当時の大人達への憤りまで蘇り、掴んだ枕をギュ……とし過ぎて、飛び出た羽が手の平を指す。 「つッ……」 “あれからだっけ……兄さんが変わったの…… 確か……” 今、会う事もない父親の友人らしい、男か女か、それも曖昧で、 “なんか……変な人だった……美形だけど……変、関西弁っぽい……今の兄さんと少し似てて…… 兄さん連れてかれちゃって……” 飄々としたその人物に兄は預けられ、一人 残された凛にイジメをしようとする愚かな考えを持つ輩はその後現れず、 “噂に尾ひれとか背びれとかついて…… 兄さん、学校でヒーローみたいになってたなぁ……おかげで学校でイジメみたいなの……無くなったっけ……でも……” 平穏だったが、酷く寂しくもあった。 “助けてくれた兄さんと離れ離れ……あの時は 、もう一生会えないんじゃないかって思ったけど……確か……” 一ヵ月と少し後、兄は戻ってきた。 戻ってきた愁は驚くほど性格も態度も変わっていて…… “すっごくやさしくって……いっぱい遊んでくれるようになって、楽しい時は一緒に笑ってくれて……悲しくて泣いちゃった時は、頭を撫でてくれたし……泣き止むまで側に居てくれた……噂だけじゃなくて、僕の中でほんとに ヒーローになって……” 幼くもそんな兄に抱く憧れが、次第に形を変えたのは小学校を卒業し、兄と同じ中学に 入学した頃…… “兄さんが……キラキラして見えて……その気持ちが恋だって気づいたら……” 居ても立っても居られず、昼休みこっそりと兄の教室を覗きに行ってみた。驚かずにはいれなかった、大量の女子生徒を蜜蜂と例えるならば、兄は花の蜜であり、つまるところ…… “ライバルがあんなにいるって……今考えてもゾッとする……けど、僕の兄さんは……” 他の男子の追随を一切許さないといった感じで壮絶にモテていた。外見も綺麗に整っていて、誰にでも分け隔てなく底抜けにやさしく面倒見もよく、運動神経もずば抜けていたが、それより何より…… “一切そういうことに気付いてなかった…………” ぽややんとして、身体の奥の方に少し熱を持ち始めたような年頃の女子生徒達に囲まれても、逆に歯痒いくらい兄は変わらず、それ故の危機感が凛に生まれ、 “あんなの……ほとんど肉食獣の前に最高級の生肉をぶら下げるのと変わんない……それに 世界一大好きな兄さんが悪い女に騙されるかもしれないって、思ったあの時から僕はッ……” 兄を守る為の、長い長い闘いの火蓋が切って落とされたのだ。 “そうだッ! 例え兄さんに恋人が出来たって、諦めるなんて考えられないッ!! あんな苦しい闘いを乗り越えてッ、ここまで来たんだッッ……” 心に情熱が高まるのを感じる凛は、ベッドに寝そべったまま机の前の壁に巻き取り、ぶら下げられた糸を見つめていて、唸るほどあるそれらは細い物も太い物、どれも電灯の光にあてられて鈍い光を放っており、 “いや……実力行使は、最終手段……まずは、 相手の情報を兄さんからそれとなく聞き出して……敵を知って、僕を知れば、百戦完全勝利で兄さんは僕のものッ……焦っちゃ……焦っちゃ……ぁ……” 夕方からずっと兄を心配し続けた心労もあって、見つめたまま強烈な眠気がのしかかり、 「焦っちゃ……むにゅ…………ぼくの…… ……」 抗う事も出来ず目蓋は閉じられ、すぐに小さな寝息を立てはじめる、滑らかな眠りの訪れだった。

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