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第二十一話 愁の幸せは「葵の幸せ」、葵の幸せは「愁が欲しい」ということである。 ①
「覚えていーますーかー♪ 手と手がふれあったとーきー、それははじーめてーの愛の
旅だちーでしーたー、あいらーびゅーそー
♪ 」
いつも通りの早朝、にじむように東の空から朝焼けはひろがって、フロントガラスにはいつも通りの街並みが流れ、今日も朝から機嫌の良い葵には辺りの空気が冴えたように明るく見え、
「もー、ひとりぃぼっちじゃーないー♪
あなたがーいるから~♪ 」
喜びが懐かしい曲を歌わせ、心の弾みに合わせてアクセルを踏み込まれたエンジンは回転速度を上げる。
ブォオオオオオオッ! プシュ…… ブォオオオォオォッ!!
“また、ちょっと早く着いちゃいそう……
でも河邊くんも、きっと早く着いてるだろうし……”
「んふふっ……やっぱりっ♪ 」
朝起きてからずっと会いたくて、恋しくてたまらない愁は、今日も変わらず駅前の、いつもの場所に立っていて、その姿が遠目に見え、
“あんまり変わらないけど……ただ一緒に居るだけで嬉しくて、楽しくてしょうがないょ……♪ ”
それだけで耐え切れず笑みが浮かび、頬は火照り胸も弾む。アクセルペダルを徐々に離し速度を緩め、キュッとブレーキをかければ、彼の立つ位置の丁度真ん前でシルビアは停まり、
ガチャ……
助手席のドアを開けた愁を、曇りのない笑顔で
ニパっと出迎え、
「おはよっ♪ 」
「おはようございますっ♪ 」
交わす挨拶、助手席側に重心がほんの少し傾く重みが、なにか胸を満たしてくれるような気がして心地よく、席についた愁の晴れ晴れとした笑顔は今日もやさしく、
“今日も格好良くて……かわいい……ぁ、そうだ……
恋人なんだから……”
つい瞳を細め、シートベルトを締めようとしている無防備なところへ、チュッ……と頬に不意打ちの口付けをせずにいられなかった。
「あぅ……」
不意だったせいか、少し間の抜けた可愛らしい声を漏らす愁、
「ぁ、えと、こういうのヤだった……? 」
恋の余り、やり過ぎたかと心配になって
一喜一憂している葵の横で口付けされた頬を
ポッと桜色に染めた愁は、シートベルトを締めようとした手を止め、
「ヤなわけないじゃないですか……ちょっと
は照れましたけど……嬉しいです……」
少々恥ずかしげではあったが、にっこりと微笑んでそんな嬉しい事を言ってくれて、
「そっか♪ そう言ってくれたら僕も嬉し……ッ」
チュッ……と今度は葵の頬に柔らかな感触、
「はぅ……」
「お返しです……ふふっ♪ 」
囁くような小声で言った後のはにかみ顔は、
やり過ぎなくらい可愛いらしく、胸が
キューン……として、
“あぅ……ぅ……可愛ぃ……♡ 朝からこんなに僕をドキドキさせてっ……もぉ……”
唇の触れた部分から温かみが広がり、幸せが胸に注がれていっぱいになり、二人は視線を甘くからませ……
「ぁ……涼風さん……」
「な、なに……? 」
“やっぱり……ほっぺだけじゃ……足りないよね……
僕も……本当は唇に……”
「こ、これ以上は、公衆の面前だし……でも……
河邊くんがどうしてもって言うなら……」
「いえ……そろそろ行かないと、遅刻してしまうかも……」
微笑みながらの愁の冷静な言葉に、現実へと引き戻された。
「あぅ……そ、そうだねっ! 僕も、ちょうどそう思って……じゃ、行こっか! 」
言いながら、愁がベルトを締めたのを見て、
クラッチをつないでアクセルに力を入れ、
フォンッ!! ブゥオンッ! ブォォッ……
アクセルを踏み込んで、次々にシフトを上げていく。真紅のシルビアは、葵の喜びを表現するかのように鮮やかにスタートし、音だけを残して黒鉄駅の前から走り去った。
駅前で頬に口付けしあってからホワホワと幸せ気分な葵は、朝の準備も終わりカウンターで頬杖をつきながら、横で出来立てのふわふわな玉子を挟んだサンドイッチを美味しそうに頬張る愁をいつものように眺め、
「今日の美味しい? 」
「モグッ……ゴクッ……とっても美味しいです♪ 」
「ふふっ……♪ 」
いつものように感想を聞くと嬉しそうに笑って、答えてくれて、また食べ始める。
ほんの些細な事だが、周囲の客室まで明るくなるくらいに幸せそうな愁を見ていると、葵も嬉しくなって口元に笑みが浮かび、
“ずーっと、毎日……君に朝食作ってあげたくなっちゃう……そのうち晩御飯も……一緒に……”
眼をつむって頭のなかで想像する。
“食べ終わったら……ソファに座ってくっついて
映画見て……ラブシーンでドキドキしながら僕らもキスなんかしたりして……映画そっちのけで、
キスが止められなくなって……それから……”
例えば……綿菓子を思い浮かべると、口の中に甘い味と匂いが満ちてくるのと同じで……そういう事を想像すると、お腹の奥の方から熱を感じ……
“愛しあったり……しちゃうんだろうな……
河邊くんに会うまで……全然、誰ともそうなりたいって思ったこともないけど……河邊くんとなら……いっぱい……いっぱぃ……”
「ごちそうさまでしたっ♪ 」
「ひゃっ!? ひゃいッ……」
桃色をまといだした想像に、突入しそうになっていたところへ、また現実に引き戻すような愁の声、ドキリとさせられ、思わず変な声が出た。
「ん……大丈夫ですか? なにか……」
「だだ、大丈夫ッ! あははっ、ちょっと
ボーッとしてただけ……はは」
「クスッ……そうですか、ではそろそろ時間なので俺は外へ……」
「あ……」
両手をカウンターについて立ち上がる愁は、
このままであれば駐車場に降りてしまい、お客様と共に戻ってきて、いつもと同じであれば接客に忙しく休憩の時間も違うので、夕方の仕事終わりまで二人がゆっくりとしている時間は無い。
“も……もちょっと……一緒に居てくれてもいいじゃないか……さっきも……今は、時間だって……”
客室の振り子時計をちらと見た、時計の針は
七時五十四分を指しているのを確認し、
“あ、あんまりないけど……少しくらいッ……
よしっ……! ”
「河邊くんっ……」
カウンターから離れようとしていた愁の手を、正確には左手の小指をキュ……と掴み、
「はい……? 」
「まだ……早いょ……熱中症になっちゃうかもだしさ、それに今はもう、外でお客さんなんて待たなくてもいいし……」
言いながら、葵は落ち着かない気分に押されて立ち上がり、抱きついて、胸にそっと頬を寄せ、
「時間まで……僕と……その……」
愁の顔を見上げ、おずおずと呟く。
「ぇ……と……あっ……」
一瞬、戸惑ったように眉尻を下げた愁は、何か察してくれたのか、そのまま柔らかく温かな羽根で包み込むよう抱きしめてくれ、
「そうですね、少しだけ早いですし……」
「ん……そうでしょ、それに仕事終わるまで……
くっつけないから……僕、寂しいんだょ……?
そういうの、気づいてほしぃ……」
「あは……すいません……慣れてなくて、
許してくれませんか……? 」
囁き、困り顔のまま微笑みを浮かべた。
愁は自分の魅力に無自覚であろう、そんな胸が
キュンとする表情で見詰められ、やさしく抱擁されれば、誰だって心の中に何かがぽっと点火されてしまうもので……
「キス……してくれたら許す……」
「それだったら……朝……」
「頬っぺだけじゃ……それに昨日だって……一昨日だって……ちょっとしかしてくれてないんだも……そんなの、寂しいんだっ……! 」
「ッ……!? 」
“甘え過ぎかな……うんんっ! 寂しいんだもん……恋人なんだし、正直になっていい……へッ!? ”
そんな風に考えている最中、首に腕をまわされたと思った時には、ふわっと頭を引き寄せられていて、愁の顔が近づき、
「はぅッ……河邊く……」
ドキッとする間もなく、愁が眼を細めたと思った時には、あっさり唇と唇がくっついていた。
「ンッ!? ンンッ…………ンン……ン……♡ 」
何度も交わしたどれよりも情熱的で、触れ合う唇から愛情が尽きる事なく注がれて、
「ぷ……ぁ……ンッ♡ 」
夢中になる長めの口付け。
チュッ……チュ……ハ……ァ……チュ……
唇を離したくなくて、息をするのも忘れそうになって、どうしようもなく瞳がトロォン……とさせられて、膝から崩れ落ちそうになる身体を力強い腕で支えてくれ、
「ハァ……寂しいって、思わせてごめんなさい……これで、大丈夫ですか……? 」
切なげに、瞳を細め尋ねる愁。その吐息は
ほんのりと甘く鼻腔をくすぐって、葵を恍惚とさせて……
「ㇵ……ア……♡ まだ……もうちょっ……ろ……
してくれないと…………こ、今度は、もう少し
だけ……大人の……」
愁に火照った身体をぴたりと押し付け、密着させると、
「大人のって……」
「河邊くんは……かしこいから……僕のしてほしいこと、分かるよね……? 」
媚びるような高い声で囁きかけ、嬉々として口唇を開き、ちろと舌先を見せ大胆に誘う。
「え、っと……それは…………ッ!? 」
愁は意味を理解したようで、途端に動揺し、
「でも……もう時間なくなって……」
「ちょっとだけ……いいでしょ……カーテン開けなきゃ、中は見られないし……僕……河邊くんとは……もっと……」
あちこちを泳ぐ瞳と見詰めあいたく、火傷しそうなほど熱い頬に触れ、誘導すれば濃く赤い瞳は陶然と潤んで……
「涼風さん……ぉ……」
ボーンッ……ボーンッ……ボーンッ……
何か口にしようとした愁を妨げるように、振り子時計の八時を知らせる鐘の音が客室に鳴り響いた。
「ッ……!? 」
憑いていた狐が落ちたように我に返る愁は、分かりやすく焦燥に駆られ、
「あっ……あはッ……開店時間になってしまいましたね……俺、やっぱり下に行ってきますッ! 」
「はぇッ!? ぇ……こんな中途半ぱぁ……ぁ……」
心も昂ぶり、身体もこれでもかと言わんばかりに芯から火照らされた葵を残し、客室から外へ駆け出して行った。
「ぅ……うそ……僕……さっきよりモヤモヤしたまんまなんだけど……こんな状態で、一日過ごさないといけにゃいの……? 」
支えをなくした葵は、「はぁ……ぁ……ァぁ……」とため息を吐きながら崩れるように床に座り込む。
駐車場まで降りて、お客様を待つ事は日向が暇であった頃、時間を持て余した葵がなんとなく始めた事であり、さきの葵の言う通り繁盛し続けている今はさほど必要ないのだが、
「ふぅ……」
習慣になっている。
“朝のお返しのつもりだったのに……俺……”
「ううん……」
“でも、寂しいなんて言われて、ほってはおけなかったし……いや……自分に言い訳なんて意味がない……正直に……”
今だけは周りに誰もいない、眼にはついさっきの葵が浮かび、
“あんな風に求められて……俺は、嬉しくて……それで抱きしめて……キスがしたくて……”
「ハァァ……」
“胸のドキドキがまだ治まらない……”
ため息を吐く唇には、ほんのりと柔らかな感触が残っていて、それに反応して全身の血液が顔に集中してゆくような熱さを感じ、
“ちょっと、と言うか……凄く、恥ずかしすぎて……
思わず逃げるみたいに出て来ちゃった……”
唇あたりをグゥの手で隠しながら、悩ましい気持ちに衝き動かされ、駐車場を右へ左へうろうろしている。
“大人のって……つまり……”
凛からお勧めされる映画や小説にはことごとく、そういう表現があり、赤面して眼を背けようとしても凛に背中から羽交い締めにされ、両手で顔を固定され見せられ、小説に至っては絡み合う場面までしっかりと朗読までしてくれたので、愁も知ってはいる……
“そういうの……興味が無いわけじゃない……
……けどッ!! ”
だがフィクションとは違って、現実の葵は美し過ぎ、可憐過ぎ、恋愛というものを初めて体験する愁にとっては眩し過ぎるのだ。
“あんな色っぽい表情されたら……緊張しちゃうでしょ!? キスだけでもクラクラするのに……
それ以上ってッ……”
以前、葵が自らの過去を語る際にはだけたシャツから溢れたやさしそうで、マシュマロのような
白肌に、いつかは触れたいと願ってはいたが突然その機会が訪れると、嬉しさよりも羞恥心の方が強く、
“ッ……でも勇気を出さなきゃっ! お付き合い
するってそういうことだろうし……二人で先に進まな……”
それでも己の心を奮い立たせたその時、見慣れた
カーキ色が山道を下りてくるのが、青々と繁った木々の隙間から見えた。
「っ……いけない……」
パンッ……と、意志が固まった愁は気迫を込めて頬をたたき、まぶたを何度か強く瞬かせ、
“あれは多分常連の……まずは仕事に集中しないと……涼風さんに怒られてしまう……”
思考を仕事モードへと切り替えると同時に、予想通り見慣れたカーキ色のワゴン車は駐車場の線に従ってゆっくりと停車し、
「ようッ! 愁ちゃん、おはようっ!」
水汲みを終えた帰りにいつも寄ってくれる常連のお客様、愁は努めていつも通りの微笑みで出迎える。
「おはようございます下村さん、今日もお早いですね。」
「ハハハッ、愁ちゃんはまだまだ喋り方が堅いね、もうちょいフランクじゃないと肩凝っちまうよ……ん、なんか今日は顔赤くないかい? 」
「ァ……ハハッ……今日は少し熱いですから……そのせいじゃないですかね……ハハッ……」
気迫を込め過ぎ、赤くなった頬を人差し指で
ポリポリと掻きながら苦笑い、
「そうかい……おっ! そういやさっき上で金田のジジとせがれに会ったから、あいつらも後から来るんじゃねぇかな? 」
案内しつつ、気楽に取り交わされるお客様との
お喋りに愛想よく笑い、
「それは楽しみですね、また息子さんに猫の
画像見せてもらわないと……」
「愁ちゃんも好きだね~、はっはっは……♪ 」
言葉をやわらかく受け止めてから、軽く押し戻すように答える。
「フフッ……♪ 」
お客様が来店されるまで、周りに誰もいない時間は今や貴重であり、葵と一緒の空間だと好きが過ぎて鼓動が高鳴りし、思考が真っ白になりがちな愁にとってこの習慣は、ぼんやり物事を……それでも主に葵の事を落ち着いて考えるには都合が良く、やめる訳にはいかないのだ。
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