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第二十二話 愁の幸せは「葵の幸せ」、葵の幸せは「愁が欲しい」ということである。 ②

 大忙しなランチ時もピークを過ぎ、本来なら 一服しているはずの葵。 “河邊くん……バカ……あんな感じで僕を放置してくれちゃって……そりゃ……お仕事も大事だけど……” 客室では全ての配膳を終え、いつものように女性客に話し掛けられ、最も貴重な装飾だと思わざるをえないほど見事な微笑で対応する愁に、 キャーキャーと迷惑にならない程度に抑えられた黄色い声が他の客席から上がって、 “ちょっと……お客さんに愛想ばら撒き過ぎじゃないかなッ……!? それにみんな、ボディタッチが激し過ぎじゃ……” 「くぅッ……」 聞こえる度に噴煙のように吹き出る嫉妬心に、 窓枠をギュッと握り、客席と厨房を繋ぐ大きな 配膳窓のすみからひょっこりと顔を出し、愁を覗いている。 「愁さーん、こっちも相手してよ〜♪ 」 「待てっ! 愁はさっきからウチらの方に来てないんだから、こっちが先だろが生娘どもっ! ちったぁ年上を敬って暫く黙ってミルクでも飲んどけっ! 」 「んだァッ!? 愁さんだってオバさんより女子高生のが良いに決まってるでしょッ!! 年上なら年上らしく黙って茶ぁ飲んでりゃいいんだよッ!! 」 「なッ!!? このクソガッ……」 突如として始まったお客様同士の声高な諍いは、厨房まで聞こえるほどに大きく、客席の誰もが 振り返る迫力に葵もビクッとし、 「うぁッ……」 声が漏れ、怯えるほどの恐怖に配膳窓から出していた顔を引っ込め、そのままの姿勢で身体が固くなって、 “大きい声……苦手だッ……けどッ……河邊くんが……” それでも年上として、上司として、愁の為、 がけっぷちに足を踏み出すような恐ろしさに耐えながら葵は窓枠を掴み、ふるふると震えながら腰を上げ客室を見ると、 「ッあ……河邊く……」 客席から立ち上がり、いまにもつかみかからんばかりの形相で睨み合うお客様とお客様の間に、愁は立っていて、 “なんだか……様子が……” 後ろ姿で表情も見えず、声も聞き取れないが、 二人と二、三会話したかと思えば、二人とも数秒前の喧騒が嘘のように顔を真っ赤にして、それぞれの席に戻ってゆき、客室も徐々に平穏となり、 “凄いなぁ……僕なんかじゃ全然無理かも……下手したら泣いちゃうんじゃ……まっ、まぁ……それは置いといて……” 当事者達はそれぞれの席に座り、あどけない小娘のようにモジモジとして愁に熱い視線を向けている。 “あのお客さん達と、なに話したんだろ……? ” 疑問に思っている間も、愁は蝶のように客室の中を行ったり来たりしてお客様と笑顔で言葉を交わし、店全体の雰囲気は明るくなって、先程までの賑わいが戻ってきた。 “気になる……けど……多分、照れちゃってケンカどころじゃないんだ……河邊くんに微笑まれて…… あんな素敵な声で言われたら誰だって……僕だって……毎日……こんなに……” 少年らしさを残しつつの、絶妙な色香とやさしさと柔らかさで、女性客の心を鷲掴み、続々と常連にさせ、悩ませ色めき立たせている事など気づきもしない愁は、 “それに無自覚なのはちょっと問題な気がする……みんな愁くん、愁くんって、ちょっと距離感が近過ぎじゃないかなッッ……!? ” どこか誇らしげではあったが、同時に肉食獣の檻に恋人を置き去りにしているような、危惧の念が伴わざるを得ない。 “やっぱり気持ちだけじゃ……心配だ……河邊くん ……やさしぃくて、素直で、純粋だから……早くしないと誰かに取られッ……騙されちゃうかもだし……恋人になってから、まだ一週間も経ってないけど……お互い……ずっと好きあってたんだし……それに……” 朝から口付けで火照らされた身体は冷めきっておらず愁を思うだけで、ざわめきが起きていて、 “僕も、愁くん……って呼んでみたぃ……葵って呼ばれて……いっぱい甘いキスされたぃ……いっぱい…… 愁くんに愛されたぃ……♡♡ ” スイッチの入った心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようで、初めて感じる渇きにも似た恋人を求める気持ちに溺れかけ、 「って!? こ、これじゃ……僕が欲求不満みたぃ……ちょっと冷静に……」 黒髪の尻尾で円を描きながら、くるんと客室とは反対の方を向き、作業台の上に置いてあるグラスに半分残ったお気に入り、練乳濃いめのアイス ミルクを手に取るとグイッと飲み干し、 “で、でも……キスだって僕から誘ってばっかりなんだから……たまにはキスくらい、河邊くんからしてほしいな……それとも最近の若い子ってみんな……” 「涼風さん? 」 「ぶふッッ!!? 」 吹き出した。何度目になるだろうか、愁の事を考えボーッとして、恒例行事のように当の本人に驚かされ、何かしらドジな自身を晒してしまう、 「だ、大丈夫ですかっ!? 」 「ケフッ……ぅ……だいじょびゅ……で、な、なにかにゃ……? 」 「あ、その、注文も落ち着いたので、涼風さんに休憩してもらおうかと……ぅわ、べっちゃりですね……」 「しゅ……河邊くんが驚かすから……」 「それは、すいません……少し上向いてもらえます? 」 だが、どんな恥部を見せてもその度に愁は柔らかく微笑んでくれて、 「ん……ッあ……もぉ……自分で出来るのに……」 「お節介かもしれませんけど、俺のせいですから……」 やさしく、今も唇から垂れたミルクをハンカチで拭いてくれたりもして、 「はい、おしまいです……とっても綺麗ですよ♪ 」 「っっ……♡ 」 いつも褒めてくれるので、全然嫌な気もせず、 “むぅ……♡ ばかぁ……天然人たらし……君にそんなこと言われたら……お世辞でも、身体……喜んじゃって……” むしろポニーテールを尻尾のように左右に振って幸せを表現したくなるくらいには嬉しかったりもしたが、 “ッ……じゃなくてっ!! さっきのあれも、い、 一応、聞いとかないと……” 上司としての体裁もあり、いつもそれは控えている。 「あっ、ありがとッ……そういえば、さっき 大丈夫だった? 」 「えっ、さっきって何かありました……? 」 視線を宙に這わせ考えている、 「ほら、ちょっとお客さん同士で騒がしかったからさ、あれって……」 「あぁ、たまにああいうことあるので全然 大丈夫ですよ、それに皆さんとってもいい人達ですから、すぐ仲直くなってくれたみたいです♪ 」 微笑みは変わらず、湖に沈んだ小石の波紋ほどの揺らぎもない、 “ほんと……天然というか……僕も人のこと、あんまり言えないけど……河邊くんって……やっぱり 鈍感……” 先の諍いの原因が自分とは気づきもしていない、客室では大なり小なり似たような事が起こり、それが愁の日常とかしている様だ。 “これは、僕が頑張らないと……進展はしばらくないんじゃ……うん……絶対そうだッ……この流れで……ちょっと大胆に……” 「そ、そっかぁ、気づいてないんだ……」 「何か、いけなかったでしょうか? 」 「うん、何とは今は言えないけど、ちょっと問題かもね……だ、だから今日、僕の部屋で勉強会だねっ! 」 「ッッ!? 」 突然の事態に愁は驚き微笑みがやんで、まばたきすら忘れ、大きく見開かれた愁の瞳に見詰められながら勇気を振り絞って…… 「その……ちょっと……ぁ……い、一緒に見たい映画とかもあるし……僕、ぃ、今まで人と映画見たことにゃ……ないから、初めては君と……ッあ!?  ちゃ……ちゃんとお仕事のことも教えるし……明日はお休みだしッ……ど、どかな……? 」 本命の願いもしっかり織り交ぜ、手に汗を感じながら最後まで言い切った。 客室の賑わいをよそに潮が引いたように静まりかえる厨房、しばしトキン……トキン……と緊張の 鼓動だけが聞こえる、 “ち……ちょっと……違ったかなッ!? いくらなんでもあからさま過ぎ……” そんな静けさを打ち破り、 「どかな……って、お店以外で涼風さんと一緒に涼風さんといれるの嬉し…………ッッ」 発言の間違えに気づくや愁は顔を真っ赤にして グゥの手で口元を隠し、非常におどおどとしながも、 「今のは違いましたッ……し、仕事のことなら 絶対ですし……あの……謹しんでお受けさせてもらいます……です……」 少年らしい恥じらいと可愛らしさをしっかりと見せつけながら、望み通りの答えをくれた。 「やったっ……♡ 」 お客様には決して見せない愁の姿に、心はすっかりキュンキュンで満たされ、 “やば可愛ィィ……♡♡♡ 僕と一緒にいれるってわかっただけで……こんなかわいい姿見せてくれるなんて……” 恋慕、安堵、ある種お客様への優越感、それらがひしめきあい湧き起こる幸福感に唇も緩んで、 嬉しさのあまり未だ恥じらう愁に抱き寄り、 「た、大したお構いは出来ないかもだけど……いっぱい、いっぱい……僕、頑張って色々教えるから……ねっ……♡ 」 首に腕をまわし、今まで配膳窓から見えていた二人の姿は客室から完全に見えなくなった。 「は、はぃ……ッ!? す、涼風さん……ちょ…… 距離が……お仕事中でっ……」 「んふッ……僕……休憩中だもん……♪ 」 愁の可愛いは度が過ぎており、口元を隠す手を グイと掴んで下げさせると瞳を細め赤い頬のまぶしそうな顔で、 「ぁ……そんな……お、お客様に見られちゃうかもッ……」 と抑えるつもりで言ったであろう愁の言葉に、逆に欲情で胸が疼いて、意識をぼんやりとさせ仕事中だというのを忘れさせられ、 「大丈夫、ここなら多分見えないし……一服なんかより……少しだけ…………♡ 」 「ぁ……」 チィィーンッ…… レジ横に置かれた呼び鈴の音に見事に思い出させられる。 「ッ!? ぉ、お客様……お帰りのようです……」 「ッッ…………そっ、そうみたぃ……だね……」 「すいませーん、お会計お願いしまーす。」 “くッ……空気を読めないお客さん……まぁ……きっと九十七%くらいは僕が悪いんだけど……せめてあと五秒くらいあとでも……” チュッ…… 「ホェッ……? 」 お客様の声に呼ばれ、愁が離れていく……物足りないような寂しさにうつ向いてしまいそうな タイミングで、朝と似たマシュマロのように柔らかなものが唇の端に触れ…… 「これなら……おまじないですから……大丈夫 かと……ぁ、あはは……そ、それでは客室に戻ります。ぁ……あと、ちゃんと休憩してくださいね? 」 「はぅ……ぅ、うんッ……」 ささやかに花を咲かせるように恥じらいながら、つつましく笑って、愁は厨房を後にした。 客室へ戻る背中、 「バカ……♡ もぉ……バカァ……♡♡ 」 その背中に決して届かないような声量で呟く葵、 さっきまで心に淡く渦巻いていた嫉妬や寂しさのような負の感情はどこかに消え去って、 “おまじないって……カワイイにもほどがあるよ 愁くん、全然大丈夫じゃないょ……どうしてくれるの? さっきよりも胸がドキドキ……気持ち良過ぎて落ち着かないょ……♡♡ ” 愁のおまじないの効果なのか、顔は笑みで輝いて、両手でおさえておかないと光が漏れて客室まで照らしてしまいそうな、 “あんなキュートな愁くん……きっと見れるのは僕だけ……♡ はぅぅッ……こんな……ポワポワした 気持ちで……閉店まで……ううん……今日は自分の 部屋までもつかな……” なんとも言えない幸福が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。 「と、とにかく落ち着かせないと、こんなのじゃお仕事出来ないし……お言葉に甘えて……」 高ぶる気持ちを紫煙でなんとか抑えようと裏口へ、灰皿の置いてある外の休憩所へ、夢遊病のようにふらふらと、おぼつかない足取りで葵は向かっていく。

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