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第二十三話 愁の幸せは「葵の幸せ」、葵の幸せは「愁が欲しい」ということである。③

 葵の部屋へ招かれるという思いがけない喜びが、胸の中で静かにお湯のようにあふれる。それが決まってからは客室の照明も、ふわふわの湯気を通して見るようでどこかぼんやりとしていて、 “今日は、お仕事が終わっても涼風さんと一緒にいれるなんて……うれしいな……♪ いっぱい…… お喋りして、それから……” 想像で胸はドキドキと喜びに膨らんでもいたが、 “ッ……ダメだっ! 俺に悪いトコがあって、せっかく接客のことを教えてくれるんだから……真面目にしなきゃだし……でも理由はどうあれ一緒にいれるんだから…………” 現実にふと立ち戻り萎んだりする、仕事中にも関わらず愁の思考は、その繰り返しだった。 「河邊くーん、アイスラテのおかわり〜」 「ッ……はい、少々お待ち下さい。」 だからと言って、料理をこぼしたり注文を聞き間違えたりするようなベタな失敗もなく、 「おまたせしました。」 いつものようになれた動きで手に持ったグラスを丁寧にテーブルに置いて、お客様に向けていつものように微笑んでみせた。 「ありが……とっ!? 」  ただお客様の視点から愁を見ると、いつもと 違う点が一つ、まばゆいほどに整った美少年が微かに頬を赤らめ、はにかんでいる。   「どうかされましたか? 」 それは今の男の子達からほとんど失われている 演技ではない自然で天然なはにかみであり、 「ぅ……い、いえ、今日はなんだか……その……」 周囲に無自覚に振りまかれるそれは、口当たり なめらかな甘くとろける極上のお菓子のようで、見る者の食欲を唆り、興奮性のシナモンにも似た香りは、 “一段とやっばッッ、可愛ッ!!♡♡ てか エッロぃッ!! 少年の色気ッ!!♡♡♡  やっばッ……ちょッ……これ以上はッッ……” 吸い込むだけで内壁と内壁が擦れ合うような欲望の摩擦を起こし、身体をマグマのように熱く火照らせ、どうしようもないほど甘美に疼かせる。 「ハァァァ……♡ 」 いきなり咲いた欲望に、額からはダクダクと汗が垂れ、口元がだらしなく緩んで、一瞬眼が眩み、熱のこもった息を吐きながら、ぱたん……と テーブルに突っ伏させる。 「だッ、大丈夫ですかッ? 」 「ら、らいじょぶ……♡ 」  その音に周りの客席での反応は様々で、少々の ざわめきが起こる客席もあれば、昼を過ぎた頃の愁と言葉を交わした客席の女性陣は、 “わかるわぁ〜♡ あれは、しょうがないよね……” “あれは……しょうがねぇ……あんなフェロモンだだ漏れなの……次はウチもッ……♡ ” “河邊君の……あんな可愛い態度……見せられちゃねぇ……♡ ” “また、お喋りしたい……♡ こっちも早く飲み干して……おかわり……お願いしなきゃ……” “カッコいいのに……それだけじゃないなんて…… あぁぁぁ……焦らない、焦らない……もっと……もっと自然に仲を深めてからじっくりと……♡” 実体験により全てを理解しており、どこか達観としているようで、皆、愛欲に燃え、炭火のような熱のこもった瞳で愁を眺めつつ、虎視眈々と次の 機会を狙っている。  愁は突然の事に心配になって、即座にしゃがみ寄り添って、髪と腕の隙間から微かに覗く瞳に 視線を合わせ、 「でもお顔、凄く赤いですし……体調、良くないですか? なにかお薬、お持ちしましょうか……? 」 「へーきぃ……♡ ちょっと食べ過ぎただけだから……ぁ……そんなに……近寄っちゃ……ァ……♡ 」 しかしこの状況を体調不良とするなら、極めてやさしい美声も、かわいらしく首を傾げる些細な動作すらも、病状を悪化させる原因でしかなく、 「そうですか……それでしたら良いのですが……」 「わ、私のことよりぃ……河邊君こそ……何か 困った事あるんじゃない? な、なんかいつもと違ってエロッ……じゃなくて雰囲気違うし、お姉さんで良かったら相談にノるよ? 何でもしてあげるし、お金とかなら貯金も結構……」 熱っぽい顔で、放っておくとホストに全財産貢いでしまいそうな、危なっかしい言葉が返させる。 「ぁ……ははっ、お気遣いありがとうございます、でも大したことではありませんし……それにお客様にはこうやってお店に来ていただけるだけで、俺は十分に幸せですから。」 「そう……♡ ならこれからもずっと……ずーっと通うから……♡ そ、そうだっ、ねぇ今夜もし 暇だったらぁ……色々と仲を深め合いたいし、私と麓のホテッ……もとい食事でも……」 「おーい、河邊さーんッ、こっちも追加で 注もーんっ♪ 」  発情期のように妙に上ずった声を、黄色い声が遮って、愁は声のする方へパッと振り向き、 「かしこまりましたっ、少々お待ちくださいませ。」 遠くの席に届く程度に声を張って返事をし、 突っ伏したままのお客様の方へ向き直り、申し訳なさそうに一礼。 「すいません、呼ばれましたので……体調がもし優れないようでしたら、お声掛けください。」 「ぁ……え……うそ……」 立ち上がりかけて、前髪と腕の隙間からジッと こちらを見詰める瞳は、あからさまに寂しそうで、このまま放っては置けないと思わせるには 十分に心細そうで、 「大丈夫ですよ。」 「ぇ……?」 子供をあやすようにゆっくりとやさしく、 「ご心配されなくても呼んでいただければ、すぐに駆けつけますから……ね? 」 言って、最後ににっこりと微笑み。愁の声には癒しの効果でもあるのだろうか、お客様の瞳からは風に吹き飛ばされたように寂しさは搔き消え、 代わりに安堵の色が滲んできて、 「ふゎ……は、はぃぃぃ……♡ 」 と、空気が抜ける時の風船のような返事に愁も ホッとして、クスッ……と笑みをこぼし、今度 こそ立ち上がると再度一礼し、 「それでは、失礼します。」 返事をしてからはコクコクとただ頷き続けるお客様のテーブルを後にし、次のお客様を待たせてはいけないと思い足早に黄色い声のした客席へ向かう。 “今日はお客さん達に色々と心配される…… よっぽど変な顔になってるのかな……? 恥ずかしいけど、ここに来てくれる人達、みんな良い人でよかった……”  他店では中々にお目にかかれない葵の好みで仕込まれた執事風の接客、それだけでも愁の見た目であれば漫画のキャラクターように様になって、老若男女問わず誰しもを魅了し惹きつける。 “けど、それに甘えてばかりじゃ……まずは自分のことより仕事を最優先にしないと……” しかしこの日の午後からは葵との一時を思い、悩み恥じらう事で、無自覚に生じた背骨のあたりから溶けそうになる少年期特有の甘いフェロモンに、何十人の女性客が雌の本能を刺激され、骨抜きにされ、ひたすら悶々とした気持ちにさせられた、 “あと二時間と少し……それから涼風さんとッ…… じゃなくてッッ……一生懸命頑張らなきゃ! ” ただし誰もその事に文句は無く、逆に普段見る事の叶わない、ある種レアなものが見れた事によって、皆頬を真っ赤にしながら、来店した時よりも艶めいて、満足そうに帰っていった。 「はぁ…………」  窓に映る景色が茜色に染まっていく、閉店の 時間を迎えお客様もいなくなり、BGMも消して静かな客室。愁はカウンターに頬杖をつきながら、いくらか鮮明になった頭で今日の自身を振り返り反省していた。 “結局、最後まで涼風さんのことばっかり考えてたなぁ……全然集中出来なかった……” 「ぁ……あの……河邊くん……」 「ッ……」 面伏せな気持ちでいるさなか後ろから聞こえた声に耳をくいと引っ張られ、振り向くと真っ白な顔を淡紅に染めた葵が、どこか恥ずかしそうに身体をモジモジとさせながら立っていて、 「あッ……の、これは、違くて……サボっている訳ではッ……」 不意打ちに言葉が詰まって、恋人のパッチリと澄んだ眼差しで心を覗き込むように見られると、 落ち着きかけた胸が再びキュンと痛くなる。 「ん……そ、そんなことより、僕のほうは全部終わったから……早く……って、うゎぁ……どうしたのこれ!? 」 言いながら眼を丸くした葵、見回す客室は天井の露出した梁から窓から全面ピカピカで、床には塵 一つ落ちておらずツヤツヤしており、いつも以上に丁寧に清掃されていて、 「ぅわわっ、大変だったでしょ? 天窓まで キレイだし……けど、あんな高いトコどうやっ……」 磨かれた天窓を、その先に見える薄っすら青紫に染まる空を眺め驚きながら、嬉しそうに微笑む葵に対して、 「実はその、午後から仕事に集中出来なくて……」 「て……って……午後からって、それって……」 「は、はいッ……涼風さんのことばっかり考えてしまって……」 「はぅッ……!? 」 「せっかく仕事のこと……教えてもらえるなら、真面目にしなきゃって思うのに……一緒にいれる時間がちょっとでも増えるって考えたら、どうしても嬉しくて……ぁ……の、もう少し……恋人らしい時間というか……」 膝が震えて椅子から立ち上がれずとも正面を向き、見上げ、言葉に誤魔化しを混ぜず自分の本音をさらけ出す。 「我ながら浅はかですよね……今後は、気をつけますから……」 「そ……そんなこと……」 水のように正直な言葉を浴びせられ、全て飲み干した葵は、 「そんなことッ……お客さんに迷惑になっちゃ イケないし……イケないことだけど……けど、そこまで思われてるって……とっても嬉しぃ……ょ……♡   」 酔ったように頬を真っ赤にして、喜びからくる 余韻に震えているのか、両手を肩に回し身体を 押さえながら、 「はぅぅぅ……♡ もぅ……ガマン出来にゃ…… ハァァァァァ……♡♡♡ 」 深いため息とともに、仔猫のような頼りない姿で床にうずくまって…… 「ぇ、す、涼風さッ……どうかしたんッ……!? 」 「何でもないッッ! ちょ……ちょっと待っててッッ!! 」 飛び跳ねるみたいにして立ちあがって、驚くほどの勢いそのままに、バタバタと厨房の方へ走り去り、ドンガラガッシャン……と何か厨房の奥から慌ただしい音がして、最後にパチンパチンとスイッチを切る音と同時に店全体の電気が消え、 「ハァ、ハァ、ぉ……お待たせッ……帰ろっかッ、今すぐにッ! さぁ……!! 」 薄暗くなった客室に体感にして十秒ちょっとで、額に汗をかき、派手に息を切らした葵が戻って来たかと思えば、帰り支度を済ませていて、なんなら愁の荷物も抱えていて、 「はぃ……いッッ!? 」 まだ震える膝の上に揃えて置いている両手を掴まれ、立たされ、引っ張られ、初めて出会った日の葵からは想像も出来ない力に驚く事しか出来ず、 一も二もなく、シルビアの助手席に座らされていた。

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