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第二十四話 愁の幸せは「葵の幸せ」、葵の幸せは「愁が欲しい」ということである。④
仕事中に惚けていたのは、愁だけではない。
いつもはなんとなく心を落ち着かせてくれる煙草も、今日ばかりはまるで効果はなく、
“お店以外で涼風さんと一緒に涼風さんといれるの嬉し……だって……♡ ”
「エヘへ~♡♡ 」
幸福感に全身が浮かび上がって、厨房を踊るように珈琲を淹れ、料理を作り、
「河邊くんっ、五番さんとテラスの二番さんの
お願ーいっ♪ 」
「ぁう……は、はぃ……」
出来上がった料理を受け取りに来る愁を、
カウンター越しに赤面させるくらいには艶やかな
笑顔で仕事をこなしていった。
“僕なんかを、あんな意識してくれるなんて……
かわいいィ……♡ ”
「ッ……♡ 」
“ッと、いけない……僕のほうが大人なんだから、
余裕をもって、冷静にしてなきゃね……♪ ”
「フフッ……♡」
そんなこんなで午後からは頭の中でパッパ
パッパと色とりどりに幸せの花が咲き乱れ、厨房の窓から差し込む光が柿色に変化した事にふと
気づき時計をみると、既にラストオーダーも飛び越え、閉店の時間になっていた。
「早ッッ! 」
夢からさめたように、一人時計に突っ込み、
手元を見ると、売上の計算、洗い物はおろか厨房の掃除も綺麗に終わっており、
“な、なんか……こうあっという間に時間が過ぎると……ちょっと嬉しいんだけど……緊張も……そういえば……リビング……掃除してたかなっ!?
キッチンに洗い物とか……ベッドもっ……ぁう……”
「ベッド……」
愁の方が終わればアパートへ、今日は一人ではなく愁と二人……
“今日……もし……そんな雰囲気になったら……
セミダブルだから、ちょっとだけ狭いかも……♡ ”
幸せな恋人との秘めたる交わりを、想像しているうちに、考えているうちに、
”ぁ……でも……そもそも、僕のこと……受け入れてくれるのかな……? 僕の身体……”
不安まで一緒に浮かび上がって、波のようにしてなだれ寄ってきて、知らず知らずしゃがんで……
“ッ……それは……怖ぃ……河邊くんに、拒まれたらって考えただけで……”
「ううんッッ! 」
沈んではいけないと首を振って、頭を切り替え、
腰を上げ、
「考えてもしょうがないよねッ……その時は、その時だし……ッ……そういえば、河邊くん……終わったかな……? 」
声に出して言ってみても落ち着かない。愁の優しさに触れていないと、強くつかんでいないと、
落ち着かない……そうして何かに押されるように
そわそわと客室へ……
“ぁ……ボーッとしてる……なんか珍し……”
後ろに立っている事にも気づかずカウンターに
頬杖をついている愁の姿は絵になって、どこか
映画のワンシーンのようで、心の落ち着いた状態を忘れさせ、
「ぁ……あの……河邊くん……」
そこから先、家に着くまでの葵の記憶は少し曖昧だった。少しの会話、顔が首の付け根まで赤らんだ愁に見上げられ、ドキドキした事と、
「…………一緒にいれる時間がちょっとでも増えるって考えたら、どうしても嬉しくて……ぁ……の、もう少し……恋人らしい時間というか……」
可愛さ、というにしては切れ味の鋭過ぎる刃物のような台詞に、理性という紐がスパッと簡単に切られた感触だけは鮮明であった。
「ちょ……ちょっと待っててッッ!!! 」
ここよりは曖昧な部分の補足。叫ぶように言い残し厨房まで駆け戻った葵、普段のおとなしい見た目からは誰も想像もつかないほどに血相を変え、調理台の上に置いていた鞄を持って、
“反則ッ♡ 反則でしょッッ♡♡ 凛々しい
愁くんのあんなッッッ……いつも一緒にいてっ、耐性のあるはずの僕ですらッッ……”
愁のバッグも忘れず脇に抱え、興奮のあまり鼻
から垂れた赤い糸のような細い血のすじを空いた片手でビッと拭い、
“あんなの危なすぎるッ! 普通の人なら気絶しちゃうッッ♡ でも……でもッ、心配しないでッッ! 僕がちゃんと責任もって……♡♡♡ ”
壁を平手打ちして押した電気のスイッチには
ホラー映画の血糊に似た跡がついたが、気に留める余裕もなく、追いかけられるような気持ちで客室へ、
「ハァ、ハァ、ぉ……お待たせッ……帰ろっかッ、今すぐにッ! さぁ……!! 」
息も切れ切れに、きょとん……とする愁の太腿の上にちょこんと置かれた手をひっ掴んで、矢のように外へ飛び出し、二段飛び、三段飛び……否、五段飛びする勢いで階段を駆け降り、愛車の運転席へ飛び込んで、
「す、ず風さ……」
「し、し、心配しないでッ! ちゃんと、やさしく教えるからッッ……」
愁が戸惑いながら助手席のドアを閉めると同時にペダルを踏み込む葵、シルビアは舌打ちするようにスタートして、激しく後輪をスピンさせ駐車場から走り去った。
日向を飛んで出た葵の愛車。シルビアは電光の如く峠を下り、街中を滑らかなハンドルさばきでヒュンヒュン走り抜け、朝の待ち合わせ場所である黒鉄駅もあっという間に通過して、
“涼風さん……なんだか……ちょっと変……”
流れていく景色、それよりも美白 い頬に薄い桜色が射す、いつにもまして艶かしい葵に、眼も心も奪われ、
“でも……涼風さんを見てると……いつもドキドキだけど……今は少し違う……俺も、変だ……”
そんな葵も愁を横目に見ては、
「はぅ……」
視線がぶつかるたび声を漏らし、慌てたようすで視線は前へ戻り、桜色は薄暗い車中でもわかる程、一層濃いめとなり、
“こういう涼風さんに可愛いッ……って、思うたびに……身体が……中から熱くなってくるというか……”
未知の感覚にうろたえ、惑う愁。これといった
会話もなく、初めて訪れた葵のアパートに感動する暇もなく部屋に連れ込まれ、無言でリビングに案内され、ソファーに座らされていた。
しん……としたリビング、少し距離の空いた隣には、心境を表すようにポニーテールをしゅんとさせ、両膝を抱え小さくまとまった葵がいる。
「ぁ……の、涼風さん……? 」
「ッ…………」
部屋に通されてから続く沈黙の空気に耐えられず気分を変えようと、愁は葵に話し掛けてみると、
「どうしたんですか……? さっきとは全然……」
「っ……自己嫌悪中なんだ……」
日向を出る時の勢いはどこかに消え、両膝の隙間から洩れ出てくる返事は、押し殺されて聞き取れないほど低く、
「運転してる時くらいから……ちょっと我にかえったというか……約束したとはいえ……そにょ……
強引だったかにゃ……と……」
痛々しいほどションボリしている、本気で反省しているのか、さびしい調子で言いながら、
“あぁ……確かに言われたら、ちょっと強引だったかもだけど……別に涼風さんに引っ張られるなら……イヤじゃなかったし……”
「ごめんね……ぃ、痛くなかった? 手……引っ張ったりして……」
ゆっくり顔を上げる葵、宝石のように光沢 のある瞳と視線は甘く絡んで、
“こんな綺麗な瞳で見詰められながら、お願いとかされたら……誰だって何でも叶えてあげたくなる…………ッて、そんなこと考えてる場合じゃないッ……俺なんかのこと気にしすぎて、泣いてしまいそうじゃないかッ……なんとか励まして……”
「あんなの全然、平気ですから……むしろ……ぅ、嬉しかったり……ぁ、はは……」
その潤みを滴らせてしまわないよう考え、話すと、
「ほっ……ホントッ!? ぉ、怒ってない……? 」
「怒る理由なんて、ないじゃないですか……」
「ハァァァァ………」
緊張が解けたのか、葵は長く吐息を洩らし嬉しそうに頬はゆるみ赤らんで、
「良かったぁぁぁ……僕、君に嫌われちゃうんじゃないかって心配で……」
「そんな心配、しなくていいですよ。」
好意にみちた眼差しに微笑み返すと、
「はぅ……ありがと……♡ 」
声も少しまるくなって、湿り気を帯びたようにも聞こえ、
「ねぇ……ちょっとだけ……くっついてもいいかな……? 」
「ぇ……あ……あぁ……! ぃ、いいですよ……お気になさらず……」
「そ、それじゃ……お言葉に甘えて……」
“やっぱり……涼風さん……キレイ……今日は特に、それだけじゃなくて……てッ!!? ”
その両方の魅力に聞き入り、眼を細め恍惚と眺め入っていると、葵はそのままギシッ……とソファーを軋ませ、用心深い猫のように少しずつ寄ってきて、愁の予想をはるかに上回る意外な密着の仕方、
「し、失礼するね……」
きちんと揃えられた太ももの上に大胆に跨がってきて、肉から骨へと伝わる重さが、これが夢ではないと教えてくれる。
「ぁ……え゛……ッッ!? 」
「お、重かった……? 」
「それは全然、大丈夫ですけ……どッ!? 」
愁の身体はふいに引っ張られ、引き寄せられて、葵の胸にポンッ……と頰があたって、
「嬉しぃ……♪ 僕も、お店で君が言ってくれたのと、おんなじこと思ってたからさ……」
「むぐっ……ぉ……同じことって……」
「ぅん……恋人らしい時間って……言ってくれた……だから、さっきは浮かれちゃって……」
「ッッ……」
腕が背中に回り、強く抱きしめてきて、
白い綿シャツを通して、愁の頰に葵の体温と鼓動と、
「ぁ……やっぱり……嫌……だった……? 」
「ぃ、嫌じゃなくてッ! ぇと、心の準備……
ではなくてッッ……今日は……そ、そうだっ!
仕事のことッ! 接客を教えてくれるって……」
「はぅ……それも、ごめん……」
身体の悪寒のような小刻みな身ぶるいも絶えず、波動のように全身に伝わってくる。
「河邊くんの接客に悪いとこなんて……僕には
わかんない……多分、そんなとこなぃょ……覚えるのも早かったし…………あれは、ここで、二人っきりになるための口実……」
「ぇ……」
「今日、実は……朝から……ちょびっとだけ……
ぁにょ……キスの続きが出来なくて……仕事中も、
もやもやしてて……客室じゃ……君が、お客さんといちゃいちゃして見えて……悔しくて……」
喋り出すと、葵の本心は波のようで止まらず、
「みんな……美人だったり、可愛かったり……若かったり……このままじゃ……河邊くんが盗られちゃうんじゃないかって……そんなことばっかり考えちゃったら……いてもたってもいられなかったんだ……」
どうしようもなく胸に打ち寄せ、
「し、しかも……お店が終わるまでは……楽しみなの……勝ってて……でも、一回は冷静になったんだょ……? 自分の身体のこと思い出して……
でも、でも、君のかけてくれた言葉が嬉しすぎて、さっきのあれでしょ……こんなに年も離れてるのに……ごめんね……僕、バカだから……君に拒否されたらって……考えたら……今更怖くなって……」
途切れ途切れでも言葉の一つ一つが、恥じらいや怯え、愁の中にずっとあったそれらの感覚を、
すとん……と抜け落とさせるには充分過ぎて、
「そんなことないですッ……俺が、涼風さんを
拒否するなんてッ……絶対にありえませんッ!! 」
葵を見上げ、自信を持って一語一語に力を込めてはっきり断言させた。
「あぅ……でも、でも見たでしょ……僕の
身体…………僕なんかよりも……もっと……」
「白くて、とてもキレイでしたっ! あの日から、思い出さない日は、なかったですッ……」
誰にも話す気のなかった秘密を洗いざらい打ち明けさせ、
「は、恥ずかしぃょ……そんな大げさなものじゃ……」
「ありますっ! なんでしたら今だって、膝の上にのってくれてるなんて……夢みたいで…………」
「はぅ……」
「ぉ……俺、なにを言ってるんでしょ……ぁ、あとそれから……仕事を早く覚えたのも…………俺こそ
涼風さんを、誰かに取られてしまうんじゃないかって心配で……他のお客さんと……あまり、えと、近づいてほしくなかったというか……」
喋るほど恥ずかしさで身体が熱気を帯びていく。
「ぼ、僕が……? まさか……」
「魅力的なんですッ! それに出会った日からずっとそんなことばかり考えてる俺のほうが、バカで不純なんですッ……恋人になれてからも毎朝、駐車場におりて行くのも、一人で冷静になれる
時間がないと、どうにかなってしまいそうで……」
「はぅ……そ、それは、それでちょっとごめん……」
愁の正直な言葉に、自然と身ぶるいもおさまっていく葵は照れくさそうに微笑んだ。
「なんか、今日の君……変……僕と、おんなじくらい……そういうとこ知れて……ちょっと安心しちゃった……フフッ……♪ 」
「少しくらいは、仕方ないでしょ……初めてこんなに人を好きに……大好きになってしまったんですからッ……涼風さ……ぁ……」
その微笑みはさっきよりほんの少し優しく、愁は子供をあやすように頭を撫でられ、気持ちよさに目を細めていると、
「ン……っ」
ふんわりと羽根のように軽い口づけを唇に当てて、
「ダメだよ……こういう時は……ううん、これからは名字じゃなくて……葵って、呼んでほしいな……愁くん……♡ 」
不意に下の名で愁を呼んで首をかしげ、はにかむ葵。愁の思った通り、その天使を超越した愛らしさでお願いされれば、
「ぁ…………葵さん」
誰であれ、どんな恥ずかしい願いであっても絶対に叶えてあげたくなる。
「はぅ……♡♡♡ 」
喜びを顔にみなぎらせる葵は、その喜びを少しでも失わないように、愁の背中に回った腕に一際の力を込めて、愁も負けじと葵の腰に腕を回し、
引き寄せ、二人の身体は溶けそうなほどに密着しあい、
「ぁ……ん……」
「っ……すいませッ……痛かったですか……? 」
「ううん……全然……ただ君に……大好きな愁くんに、抱っこされてると思うと……」
視線も、熱のこもった吐息も、縄のようにもつれて絡まって、
「幸せで……ねっ……朝の続き……して欲しいなって……」
「ぁう……でも、俺……その……初めてで……」
「じゃあ……僕が、教えてあげる……フフッ……♪ 」
唇をほころばせる葵、顔から火の出るような思いで俯く愁、
「ゎ、笑わなくても……いいじゃないですか……
誰だって……」
「違うょ……♪ 」
甘さをふくんだ物やわらかな声に顔をあげると、葵は優しく瞳を細め、
「おかしくて笑ったんじゃなくて、僕が教えてあげられること……まだ、あったの……嬉しくて……♪ 」
「葵さん……」
「愁くん……ン……」
自然と二人は唇を重ねる、それは今までしてきた二人のキスの中で一番なめらかで、熱いキスだった。
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