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第十話 日向 ③

開店時間になり、店内には穏やかなBGMが流れている。一人厨房で珈琲豆を挽きながら、葵の口からは「はぁ……」と、何度目かも分からないため息が漏れる。 “もしも……僕が女の子で、河邊君と歳も一周り近くも離れてなくて……傷物じゃなかったら、お付き合いとか出来たのかな……? ” 挽いた珈琲豆から香るフレグランスは、心を癒し安らげてくれるもの。しかし今の葵の気持ちは、それだけではどうにもならないようで…… “でも、河邊君……好きな人いるみたいだし……もともと、僕なんかじゃダメなんだ……男だし、そろそろオジサンだし……はぁ……イヤになっちゃう…… ” カランッ……コロンッ、カランッ…… 入口が開いたことを知らせるドアベルの音が鳴り、続いて数名の足音が聞こえる。席に案内している愁の声、それに女性同士が何か言い合っているような声も混じり…… “河邊君が働いてくれるようになって……なんだかお客さん増えたなぁ……特に、女の……” ふと、そんな風な事を思うと胸がチリチリと 痛む。最近は……楽しそうに女性客と話す愁を見てしまうと特に…… “しょうがないよね……はぁ……” 「涼風さん……? 」 「はぅっ!? かっ……河邊君っ……ぃ……いつの間にっ……な……何名様っ? 注文入ったっ? 」 「三名様で、待ちです……大丈夫ですか…… ミルが傷んじゃいますよ? 」 カラカラと空回りするミル。愁が横に来て、声を掛けられるまで、珈琲豆を挽き終わった事に気付かぬまま回し続けている。 「はッ!? 何でっ……って……あれっ、河邊君こそどうしたの? 制服が乱れてる。」 襟元は乱れネクタイが曲がっている。指摘され、愁は慌てて襟元を直しながら、 「すいませんっ……色々とありまして……」 「もう、ボーイはお店の顔なんだから、キチンとしないと……ほら、まだネクタイ曲がってるし……」 「ぁ……自分でしますからっ……」 襟元に手を伸ばし愁の言葉を無視して、妻が出勤前の夫に身支度をするように黒ネクタイを真っ直ぐに整えてやる。 「いいからっ……それとも、僕にされるのは……嫌なのっ? 」 「ぃ、いえ……嬉しっ……ぃや……そんなことありません……ッ」 「だったら、やりづらいから動かないでよっ……」 恥ずかしそうに俯く愁。無抵抗な彼の熱くなった頬に触れ、俯く顔を真っ直ぐにこちらに向かせると、視線がぶつかり…… “嬉しいって……なんだょ……そんなこと言われたら、もっと君を意識しちゃうじゃないか……” 襟元を正し、ベストに寄ったシワを伸ばす最中も、愁の熱のこもった眼差しのせいで心拍数も上がり続け息が荒くなっていき、顔もだんだんと熱くなっていく…… 「ッ……はいっ、おしまぃ……」 自分を抑えようと、そう言って唇を噛みしめた。それでも愁から、深く濃い赤玉の瞳から目が離せない……見詰め続けている内に、胸の奥の奥まで熱くさせられ…… 「ぁ……ありがとう、ございます……涼風さん……? 」 「ん……なに……? 」 「その……手が……」 気付かないままに、愁の腰を包むように両手で抱いていた。愁の口から漏れる吐息が……指先に感じる体温が……顔が映りそうな程に潤む愁の瞳が……自分を抑えつけていた理性まで蕩かせて…… 「んッ……ここにも……シワ、出来てたから……ちゃんと……して……」 今、二人の間を阻むものは何もなく、その距離は徐々に近づき、もう吐息さえ感じられ…… “河邊君……好きな人いるんでしょ? 抵抗してよっ……僕なんかが、こんなことしちゃダメって……優しいから言えないの? でも、このままじゃ、僕……君のく……” チイィンッ……… 客室からの呼び鈴の音。それは葵を夢から醒めさせ、愁の身体から離れさせるには十分な威力があり…… 「あっ……!? あぅっ……」 言葉が上手く出ない。愁はなんとか正常な自分を取り戻したようで、火照る顔を冷やすようにフルフルと首を振り…… 「そ、それでは、待たせては失礼なので客室に行って来ます……」 まだ赤い顔で、それでも彼は気を遣って微笑む。客室に向かい、見せる背中が遠のくと寂しく離れたくないと思う気持ちが……トンッ……と、その背中に触れさせる。本音では、このまま行かないで、と言ってしまいそうな衝動を抑え、 「そにょ……が、頑張って……」 モゴモゴと気恥ずかしそうに声掛け俯く。いじらしくも愛らしい葵に、 「ッ……はいっ」 と律儀に返し、愁は少々よろけながら暖簾をくぐり厨房から客室へと出ていった。 「あぅぅ……」 出ていったと同時に、口から呻き声のようなものを吐くと脚から力が抜け、床にへたり込んだ。額を冷たい金属の作業台の縁にあてても全く冷めきらない。 “なにやってんだ僕ッ!? 呼び鈴が鳴らなかったら……あのまま……” 思い返すと、羞恥から血が頬に上ってくるのを感じ、同時に自己嫌悪が脳裏を襲う。 “最近……こんなことばっかり……河邊君の近くにいると……甘えたくなっちゃって……優しさにつけこんで……っ……最低だ……” 好きになればなるだけ、愁に対する好意に胸を焦がす。日増しに大きくなるその痛みは、自分では治せない……愁に対する行為も大胆になって、自制が効かなくなっていくことが…… “怖い……それに、本当の僕を……知っちゃったら……うぅん……知られたくなぃ……河邊君が、いくら優しくたって……” それ以上は想像するだけで肩が震え、思わず両腕で抑え込んだ。 “嫌だっ……どんな形でも、少しでも長く河邊君のそばにいたいっ……” 客室から、注文を繰り返す愁の声が聴こえる。もうすぐ厨房へ注文を伝えに戻って来てしまう。落ち着かない気分に押されて立ち上がると、 “これからは、気をつけなくちゃッ! ムードに流されて……変なことしちゃわないように……頑張らなきゃっ! ” 両手を肩から離し、白くしなやかな手を強く握り、その決意を誰ともなく示すのであった。 朝の一件からも日向はいつもと変わらず、客の波が絶える事なく、十六時半のラストオーダーの時間帯になっても店内には数組の客が残っている。愁が働きだしてからというもの、以前よりも客足は増えており、常連も確実に増えていっている。 「ふぅ……これで、今日もラストォ……」 カラシの効いたハムサンドと今、トースターの中から取り出した溶けたチーズの香りが堪らなく食欲そそるピザトースト、それらを皿に装い、カウンターの上に置き、 「河邊君っ! 」 客室に声掛け、客席の新規とおぼしき女性客に話掛けられ、にこやかに応対していた愁は葵の声に振り向き「はいっ! 」と返事をすると、それまで話していた客に会釈をし、カウンターに寄ってくる。話していた女性は、後ろから名残惜しそうに愁の背中を目で追っている、こんな光景も最早日常と化している。 「これっ、」 「はい、三番様と五番様ですか? 」 「うん。」 「承知しました。」 そんな視線をよそに、テーブル席の番号を確認しあい、葵は愁と息ぴったりに業務をこなす。 “すっかり慣れちゃって、もう三ヶ月か……それにしても常連さんも新規のお客様も、増えたなぁ……売り上げも僕が一人でやってた時の五倍……今月はもっと増えそうな気がする……原因は……” 最後の注文も終え一息ついた葵は、業務用冷蔵庫に背中を預け、なんとなくポケットからスマホを取り出すと電源ボタンを押した。 二ヶ月と少し前の事、地元の女性同士がコミュニティとして使っているサイトに愁の写真が貼られていた。客が撮ったと思われるそれは、凄い勢いでイイねとやらがつけられ、瞬く間に愁の存在は地元の女性達の間に広まって、葵の作る料理の美味さも相まって、日向の客足は自然と増えていった。今では、そのコミュニティサイトに愁の画像専用のスレッドまであるようだ。 “あっ……今日も、更新されてる……” 少し前に新規の客同士が話しているのを聴いてサイトの存在を知った。その専用のスレッドには、仕事中の画像は勿論、暑さに襟元を緩める瞬間を捉えた画像、女性客に腕組みされ愛らしくはにかむツーショット……マニアックなものでは、しゃがんだ時にスラックスと革靴の間に見える踝まで……色々と貼られている。 “こんなの、どうやったら撮れるんだろ? とりあえず……保存っと……” スッ……スッ……と画面を操作し、写真ギャラリーを開く。そこには何個かの画像フォルダがあり、それぞれに猫や車とフォルダ名が表示され名前通りのアルバムカバーになっており、その中に一つ、料理と名付けられたフォルダがあり、 “うん……今日の河邊君も……やっぱりカッコいぃ……こっちの笑ってる顔も……本当は、いけないかもしれないけど、河邊君に教えても笑って終わったし…… ” アルバムカバーはサンドイッチ、開けば申し訳程度にサンドイッチの画像が一枚あり、それ以外は全部愁で埋め尽くされていた。 “それだったら……僕も見ていいよね……男同士で写真を撮るとかは変に思われるかもしれないし……はぅ……この笑顔……最高に可愛ぃ……” 一枚一枚、指でスライドさせる度、口元が緩んでゆく。そして、一番お気に入りの画像で指がピタッっと止まり、 “ぁ……これ、このネクタイを少し緩める時の首元……やっぱり、エッチぃ……この画像には、僕も何回かお世話に……” 「涼風さん……? 」 「うわぁッ!!? 」 「どうしたんですか、そんなに慌てて? 」 「にゃっ!? なんでもないっ……それよりなにっ? 」 「最後のお客様帰られましたよ。 」 画面に集中し過ぎて、気づけば十七時を過ぎている。愁は、いつの間にか客室から下げてきた食器をシンクの中に置いていっている。その隙を見て、すかさずスマホをポケットに…… 「あっ……」 「はぅッ!? な……なにッ!? 僕は決してやましいことはっ……」 突然の声掛けに手が滑り、スマホが落ちそうになった。バクバクと心臓が鳴り出す中、最後の皿を置き終えた愁は不思議そうに首をかしげ、 「えっと……最後のお客様が、玉子サンドとっても美味しかったそうで、伝えておいてくださいって……」 「ぁ……あ、そうっ!? それは良かった…… ぁははっ……は……」 ポケットにスマホをしまい、額から一瞬で吹き出た汗を拭う。やましい事をしている人がしそうなリアクションも気にせず、愁は嬉しそうに、 「ええっ♪ 自分の大好きなものが、他の人にも気に入って貰えるの、嬉しくて……フフッ……すいません、自分で作ってる訳でもないのに……つい……」 笑うと、優しい表情が顔に出て、いつも見て癒されるその表情が、今の葵には少し痛い。 「あぅッ……ぃ、いいよ……そこまで気を遣わなくて……そう言って貰えて、嬉しいし……」 「良かった、では、駐車場の看板しまってきます。 」 「うん……」 厨房から出ていく愁の背中を見送り、店の入口から出ていく音が聴こえたのを確認出来た途端に「はぁぁぁぁ……」と、本日、何回目かも分からない長めのため息が漏れた。 “気をつけなきゃ……っ……じゃなくてっ……もうッ! 僕のバカッ……まだ仕事中なのにっ……何で見ちゃったんだっ!? 朝決めたじゃないかッ……こんな事で、万が一……画像見てるのバレて……” 「僕の気持ちを、知られたらっ……」 怖い……その時、愁にどんな事を言われ、思われ、どんな目を向けられてしまうのか……想像してしまいそうな気持ちを紛らわせようと、シンクに向かい蛇口をひねる。 「はぁ……そもそも、僕の身体じゃ……」 “でも、好きな人……か……いいなぁ……河邊君に好かれて……羨ましぃ……男の僕じゃ……逆立ちしても……” カチャカチャと食器を洗いながら、ふとそんな事を考えてしまい、手が止まる。 “どんな人なんだろ? ぁ……違っ……そういうのじゃないからっ! もしも悪い人だったら人生の先輩として諭してあげなきゃだし……うんっ……僕が、河邊君のリーサルプロテクターになってあげなきゃいけない……気がするしっ……ちょっとだけ聞いてみたいような……” 最近見た映画の台詞すら使い、自分に言い訳する。愁が恋する相手、それがどんな人物なのか気にしだしたら止まらず、洗い物をする指には無意識に力が入り、「あっ……」と声が出た時にはツルッ……っと、泡だらけの手から絞り出されるようにグラスが滑り、床に…… パリンッ……! 落ちた。 営業も終わり、BGMも消えた静かな店内。 駐車場に出していた立て看板をしまい、店内に戻ってきた愁は、そのままの流れでいつものように客室の清掃をしている。 “今日も色々……大変だった……初恋の味って……気づかれてないよねっ? 思い出すだけで恥ずかしい……まともに涼風さんと話すのも一苦労だ……” テーブルとカウンターを拭き終わったウエスを置き、代わりに椅子用のウエスに持ち替え一脚一脚を丁寧に拭いていく。 “涼風さん……あんな素敵で魅力的な人だもん……恋人だってっ……” 何回、何十回……同じ事を考えたか……恋人と一緒にいる姿を想像するだけで、胸が苦しい…… “ちょっとだけ……聞いてもいいのかな……恋人いるんですかって…… もう自分の気持ち抑えるのキツいし……ッ……違うっ!? そんなんじゃない……涼風さん、純粋で優しい人だから……悪い人に騙されてッ……” メキッッ!! カウンターの椅子を拭きながら嫌な事を思い浮かべてしまい、不意に腕に力が入った。木製の背板を支えていた金属の太めの骨がグニャリと曲がっていて、 「しまッ……!? 」 慌ててグニャリ……粘土細工を捏ねるように元に戻す。 “ッ……そんなこと、もしあったら……大変だし……うんっ……部下として、後輩として……当然なんじゃない……かな? ” 決意したところで、椅子もある程度拭き終わった。次は床に掃除機がけしようとした時、 パリンッ……! 厨房から何か割れたような音が聞こえ、その次の瞬間には掃除機を捨て置き、厨房へ向かって足が動いていた。 呆然と仕事をした結果、さっきまでグラスだったガラスの破片達は床に飛び散ってしまった。 「あぁ……やっちゃった……」 ガラスの破片は蛍光灯の光を受けて、砕けた宝石のように光る。葵はしゃがみ、普段ならしないであろう、それらを素手で拾いあげようとして、 ピッ…… と、鋭利な破片で人差し指の先を切ってしまい……切れた部分は白い線となり、そこからは鈍い痛みと、遅れてジワリと血が滲む。 音の聴こえた先、厨房の中へ急ぎ入る。見回すと蛇口から水が出しっぱなしのシンクの前に、腰を抜かし、しゃがんだまま動かない葵が居た。 「涼風さんっ…… 大丈夫ですかっ!? 」 「ぅ……うぁ、河邊君……」 様子のおかしい葵が心配で、堪らなくなり駆け寄る。状況からガラスの破片で切ったと思われる指先の切り傷からは、血がポタッ……ポタッ……と垂れており…… 「ぼ……僕ッ……血が苦手で……」 クラクラと、自分の血を見て目眩を起こしている葵。愁もしゃがみ、その場で今にも倒れてしまいそうな身体を抱きかかえ、 「大丈夫っ……大丈夫ですっ……大した傷では……」 「河邊君……ッ!! あぅっ……しっ……死ぬっ……死んじゃぅ……」 「そんな訳ないでしょっ!? 」 言い聞かせても、混乱し怯えている。腕の中で震える身体を抱きしめても、震えは止まらず今にも泣き出しそうで、 “でも、本当に苦手なんだ……こんなに怖がって……一か八かっ……見えないようにするしかないっ……” 「少しッ……失礼しますっ! 」 「はえッ……!? 河邊くっ……あっ!? 」 そんな葵を心配で見ていられない愁は、怪我をした方の手首を掴みあげ、指先の傷をチュプッ……と、躊躇なく口に含んだ。 「はッ……ぁ……!!? ぁ……んっ……なにしてぇっ!? あっ……」 “これならッ……血も見えないし、一応……応急措置だったんじゃ……確か、学校で先生が言ってたこと……” 傷口を舌先で舐め、傷の周囲の汚れを落とし、唾液に含まれる抗菌物質で感染予防と止血効果……などと保健体育の授業で、なんとなく聞いて覚えていた知識が…… “役に立つなんて……もう少し……” 「はぁ……あっ!? んっ……ゃ……くすぐったぃ……んぁッ!? 」 舌先で優しく傷口を舐め、吸う度、腕の中で身体をくねらせ、悶える。 “まだ、出てる……ごめんなさい、ごめんなさいッ……もう少しですからっ……” それを我慢しようと白い肌を紅潮させ、歯を食い縛る表情、 「はっ、あぁッ!! くぅ……んっ……そんにゃぁ……吸っちゃ……ぁ、あぅ……」 薄桃色の唇からこぼれる官能的な声、その色気は凄まじく蠱惑的で、 “ッ……なっ……なんか……いつもよりドキドキするっ……これ以上は……” 傷の手当てをしているだけなのに顔が熱くなり、感情の抑制が効かなくなりそうで怖くなって…… チュピッ…… と指先から唇をゆっくりと離す。 「はぁ、はぁ……ぁ……血ぃ……止まった…ぁ…」 「すいませんっ……こんな事……他に何も思いつかなくて……」 「ぃ……いいょ、河邊君……ぁ……」 今の行為が夢ではないと知らせるように、 銀色の糸が唇から指先へと引いている。手首を掴まれ、しっかりと抱き寄せられているこの状況に、紅潮していた顔は更に赤く染まり、起き上がろうとする葵。 「ごめんっ!? 重いでしょ、すぐ退くからッ……」 「ぃ、いえ、もう少しこのまま……動いたらまた血が出ちゃうかもしれないですし……」 「あぅッ……それは、イヤかも……」 「でしょ? あとで消毒液と、絆創膏持ってきますから……もう少しだけ……」 「ぅ……うん、ありがと……」 引き留めた葵からはもう恐怖は消えたようで、好意に甘え、腕の中からこちらを見上げ、見せてくれる微笑みにホッと一安心。 “良かった、落ち着いてくれて……でも、さっきは危なかった……というか……今も……” 一息ついて考えると、とんでもない事になっている。抱き抱える葵は、天使にすら思える……その美しい顔や仕草に、今度は自分がドキドキさせられて、 「ぁ……あの、無言でいるのも……あれですので……一つだけ、質問してもいいですかッ? 」 「えっ? う、うん……ぃ……いいけど……下ネタとかは……ちょっと恥ずかしぃ……ょ……? 」 「そういうのじゃないです……」 「じゃあ、ど、どうぞ……」 短い言葉のはずなのに、ドキドキが邪魔をする。距離も近く、緊張も増して、いつもより流暢に唇が動かないが、 「ぁ、あの……ぉ……お付っ……き合いしてる……ぃ、いえ……恋人……えと……ぃますか……? 」 なんとか言葉を詰まらせつつも、言い切れた。質問に対して葵に「えッ……!? 」と、驚かれてから無言の数秒間は異常に長く感じ、緊張は、何か罪を犯しているんじゃないかと錯覚させてしまう程に激しく、 「そんなの……いるわけないじゃん……僕……仕事以外の人付き合い、苦手だし……」 そんな中答えてくれた葵は、何か考えているのか目を下に向け黙り込む。そして答えを聞いた刹那、心の奥でカチャリ……と、音がした。 “良かった……だったら……” その言葉は、鍵だったのかもしれない。心の秘めた部分の扉を開ける為の…… 「ねぇ……? 僕も……聞いていい? 」 「ッ……は、はぃッ!? 」 そう思いだすと、今まで抑えていた気持ちに歯止めが効かなくなりそうになって、そこに葵から質問が返ってきた。 「河邊君の好きな人って……ど、どんな人なの……? ぉ……男同士で……こんなこと気にしちゃうの、変かもだけど……気になっちゃって……」 「どんな人って……」 鏡を渡してやりたくなった、それが一番早く的確である。葵の質問に愁は口を開き、 「少しだけ年上で、とても……とても優しい人です……」 「ふ、ふーん……もうちょっと……教えて……」 「はい……ちょっと、おっちょこちょいな所もあって……そこも堪らなく可愛くて、好き……甘い物が大好きで、よくドーナッツを食べてます……」 「アハッ……その人と気が合うかも……僕もよく食べるし……」 答えは目の前に在って、カンニングしているのと同じで、言葉が次々に思い浮かんでスラスラと口から出る。 「黒髪は長くて、ずっと撫でてあげたいと思うくらい艶っぽくてサラサラしてて、甘くて良い匂いがします。 それに肌も、お人形さんみたいに白くて……」 「すっ……凄いねぇ……そんな人……居るんだ……ぁ……河邊君……ちょっ……と、恥ずかしぃょ……」 流石に気づいてほしい。さっきからその気持ちが大きくなりすぎて、胸が張り裂けそうになって……二人の距離は、いつしか、まばたきの音さえ聞こえてしまいそうなほど近く…… 「ッ……運転が上手で……そして、いつも……毎朝……最高に美味しいサンドイッチ……作ってくれます……」 「へッ……えっ!? 」 ここまで言われ、葵も気づいたようだ。理解が追い付かない……そんな表情を浮かべている。 「まだ……言わないと、いけませんか……? ちょっと恥ずかしくて……俺、死んじゃいそうです……」 「は……ぅ……」 葵は、はにかみながら俯いた途端、今までの比ではないくらい、みるみる顔を真っ赤にして燃えるように上気していく…… 「ま……またぁ……そんにゃ……か、からかってぇ……さ、最近……そういう悪戯……流行ってるの……? アハハッ……」 「ッ……悪戯なんかじゃっ……」 それを誤魔化すように笑い、茶化してみせる葵。まだ伝わりきらない、 “釣り合いが取れないのは知ってる……きっと……嫌われるし……でも、ここまで言ってしまったんだ……もう自分の気持ちを、止めたくない……どんな結果になってもっ……” もう二度とこんな機会は無い、そう確信した。沸き上がる焦燥感は、愁の行動をより大胆にさせ、その距離は限界を突破し、 「はにょ? か……河邊く……んッ!!? 」 チュッ………… 出会った日から恋し、恋い焦がれた葵の唇に合意の無い、初めてのキスを落とした。

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