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第十一話 約束の休日 ①
静かな住宅街。朝焼けが、空にひろがりはじめる時間帯、しん……とした静けさだけが漂う愁の部屋。アラームの鳴らない目覚まし時計の針は五時半を指している。
「うっ……ん……」
今日は日向の定休日、休日はランニングも休んで、本来ならまだ寝ている時刻なのだが、眠ろうと目を閉じると漠然とした後悔が頭の中に一杯で、
“なんて事をしちゃったんだッ……あの時は、どうにかしてたんだって……言い訳にもならない…………”
そもそも最近まともに眠れていない。葵と口付けをした日から、六日が経った。あの日の映像も、音も、脳裏に焼き付けられ、瞼を閉じるだけで何度も何度も繰り返し鮮明に思い出してしまう。
閉店後の日向、開店中は流れる有線のBGMも消えた静かな店内、その奥の厨房で、愁は葵に、口付けを落とした。驚くほど柔らかな感触、水仙のような、微かに甘いキスの味、それらに感動や喜びを感じる余裕も無く、
“なんてこと……してしまったんだ……”
合意も得ずにした口付けの、最初の感想はそれだった。恐怖に近い後悔が体中を駆け巡り、葵を抱き寄せる力を弱らせ、自然と唇も離れていく……
「ッ……河邊く…ん…」
口から溢れる葵の声は小さく震え、怯えているように感じる。表情は困惑を隠せず、その姿を見て取り返しのつかないことをしてしまった、と胃が絞られるような痛みを感じ、
“もう……戻れない……どうしよう……涼風さんの気持ちも聞かずに……こんな事…………”
「すいませんっ……」
その言った自分の目が潤み過ぎて、涙が溢れそうになった。
「フ……フフッ……」
腕の中の葵は今にも声を出して泣きそうな自分に、微笑を浮かべ小さな笑い声を漏らし、
「こういうのは……本当に、好きな人にしてあげるものだよ……」
今まで聞いたこともない、物悲しげな声色でそう告げると、なにかを吹っ切るように、ハァッと短い吐息をついて、腕の中から抜け出しフラフラと立ち上がる。
「涼風さんッ……俺はっ! 」
頭の中はグチャグチャで、謝罪なのか、伝えきっていない思いなのか兎に角、なにを言ったら良いのか分からない……それでも、腕からすり抜け立ち上がった葵に、言葉を届けようと口に出そうとして、
「っ……もうッ!! これ以上はいいからッ!! 」
普段の優しくて物腰柔らかな葵からは想像も出来ない突然の強い口調に威圧され、口を紡ぐしかなかった。
「あっ……」
一瞬の沈黙、とっさの気まずい場面を繕うためなのか、
「その、ごめんね……ほら、早く片付けて帰ろっ……まだお掃除残ってるでしょ? 」
葵は何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとしてくれた。
「は……はぃ……」
その気遣いに、返事を返すのがやっとで、後の記憶は曖昧だった。片付け終えて、帰りの車内は朝とは一転、無言で、お疲れ様でしたと駅前で車から降りる時挨拶するまで喋りかける事も出来なかった。
あの日から、二人の間には目に見えない溝みたいなものがある。喋りかけても返ってくるのは弱々しく寂しい笑顔、一言二言話せば終わってしまう会話。普段なら葵に会えない寂しさを感じる休日に、今は安息さえ覚えてしまいそうになる。
「はぁ……」
「ぅにゅ……どうしたの…………? 」
薄いタオルケットがモゾモゾと動き、背中に感じる体温。寝起きの少し掠れ気味の声、
「ぁ……凛……ごめんね……起こしちゃった……?」
もう日常とかしているから、驚く事もなく身体の向きを変えると、夢とうつつの間をぼんやりとさ迷っているような弟が居る……
「いいょ……ふゎぁ……」
可愛らしい子猫のようなあくびを終えると、ピタッ……と当たり前に身体を密着させて……
「それよりぃ……きょうのお出かけ……楽しみだね……」
小さな声で囁く。その吐息がこそばゆく顎の下に当たり、うつむくと余程楽しみにしていたのか、薄い唇にほんのり笑みを浮かべていてた。
「ぅん……」
「兄さん……どうしたの……? 」
「うん……? 」
「なんか……疲れてる……」
微笑は一転、凛の表情には淡く憂いが広がっていく……
“鋭ッ……!? そういえば最近、ちらちらと様子を伺われていた様な……寝れてないし……よっぽど酷い顔してるのか……な? ”
「ん……なにも……ふふっ♪ 兄ちゃんも、楽しみにしてたから……」
“高校最後の夏休み、俺の心配なんか……楽しませてあげなきゃなのに……”
手を打つように表情を明るく、出来る限りの笑顔を作り、努めていつもの自分らしく言う。
「え……うそ、でしょ……」
そんな努力も虚しく、一発で見破られる。凛の口元に浮かんでいた笑顔が僅かに曇りだし、
「ぇ……?」
「分かるょ……最近、元気ないもん……」
囁かれ、嘘が苦手の愁は、ただでさえ綺麗な青紫の水晶のような瞳に見詰められれば、まるで全てを見透かされ、暴かれたような気になる。
「ごめん……でも……大した事じゃ……」
「スンスン……兄さん、ウソへた……大事なことでしょ? 」
どういう理由か、首筋の匂いを嗅がれた。嘘に匂いがあって嗅ぎわけられているのか、隠すという行為の持つ避けがたい後ろめたさが顔に出ているのか、
「僕には……教えてくれないの……? 」
「ぁ……その……」
「教えてくれないの? 」
「も、もう少し落ち着いたら話すから……でも、楽しみなのは本当だから……ッ」
誤魔化しは、凛の前では通用しない。平静を装ったが気圧され、声は自分でも分かるほど上ずって、それでも話題を逸らそうとした矢先……
チュッ……
「ッ!!? 」
ベッドが揺れ、頬に柔らかなものが触れた。愁は呆気にとられ、それが唇だと理解した時には既に唇は離れていて、暗い中でも分かる程に、凛ははにかみ紅潮している。
「ぇ……とぉ……今のって……」
「ん……元気が……出るおまじない……さ、最近の兄弟の間で、流行ってるの……」
「ぅ……ウソ……でしょ? さすがに……」
「ほんとだもん……結衣君も、お兄ちゃんにしてるし……柚季君ちは……もっと……」
「そう……なの……? 」
コクリ……と黙って頷く。愁を見上げるくりくりとした目、可愛くて愛嬌のある顔立ちを備える凛に、至近距離で見詰められるとドキッとする。
「そ、そっか……最近の流行りとか、兄ちゃん疎いから……ちょっと恥ずかしいけど……ありがと、元気出たょ……」
張りつめていた糸が緩むような、少し肩の力が抜けたような、不思議と気持ちが軽くなって、自然に口元も緩んでいく。
「良かった……じ……じゃあさ……僕も、最近……兄さんのこと、心配し過ぎて……元気ないんだけど……おまじない……してくれる? 」
「ふぇ……!? 」
二人の顔の距離は近く、喋る度にリナリアの蜜のような微かに甘い吐息が唇に当たり、不覚にも胸が……
“なんだろ……変なの……弟なのに……”
「兄ちゃんがしても……あんまり効かないかも……? 」
「そんなことなぃ……ぼっ……僕は、兄さん以外ないから……兄さんからじゃなきゃ、元気出ないし……イヤだょ……」
ドキンドキンと動悸を打つ……気がする。過剰な可愛さからの錯覚なのか、それとも……
どちらにせよ切なげな弟の瞳に見詰められる愁に、拒否権は無い。
「くっ……!? 」
“バカッ……こんなに心配してくれて……こんなに震えるくらい恥ずかしい、おまじないまでしてくれた凛に……お返しをするだけ……”
言い出したはずの凛は、肩を震わせ、判決でも待つような心細げな顔をしている。 愁は心を決め、羞恥に震える肩にそっと触れ、
「ちょっとだけ……だからね……」
「ぅ……うんっ……♪ 」
返事をした。途端に雲が晴れパァッと晴天のような笑顔が凛に戻り、コアラのように身体をぴったりと寄せ、しがみついてきた。
「ぁうッ!? ちょっ……唇に当たっちゃ……」
「えへへ……♪ 嬉しくてぇ……じゃあ気を取り直して……続き……」
「もぉ……」
二人をすっぽりと覆っているタオルケットに籠った熱、周囲の静けさ、何よりも目の前にいる弟の魅力……それらが全ての神経を弛緩させ、
チュッ……
っと、流れの中にゆったりと呑まれ凛の頬に、おまじないをかけ返し、
「はぅぅッ……兄しゃ……ん……♡ ぁ……兄さんからキ……じゅなくて……おまじないを……」
「ん……恥ずかしぃ……どう……? これで……」
カァァッと、耳まで熱くなるのを感じる愁。一方の凛はベッドが軋むほど身をよがらせ、顔いっぱいに喜色が表れる。
「ぅん……凄いっぽぃ♡ じゃあ……もう一度、僕から……♡ 」
「ぇ……これで終わりじゃ……? 」
「違うょ……」
首にしなやかな腕が蜘蛛の糸のように絡まり、更に引き寄せられる。間隔の短くなっていく吐息は、性のあえぎのようで、
チュッ……♡
落とされたおまじないは、先ほどよりも唇に近く……
「こうやって、お互いにしあって……色々と昂めあうと……もっと元気になるの……♡ 」
言葉を発する度に、微かに甘い吐息が唇に当たる。サラサラの髪は寝汗でしっとりとして、どこか艶かしい。
「次は兄さんの番だよ……ねぇ、ねぇ……」
「わかったッ……わかったから……それ以上近づかれると……ほんとにッ……」
「んっ……♡ 」
チュ……チュッ……チュッ……
言葉に従い、頬に唇を当てられれば返し、当てられれば返し……途中から凛は瞼を閉じ、おまじないは回数を重ねるたびキスに変わりそうで……
「ッ、凛……これ以上は……ァ……」
「んッ……兄さ……止めちゃ……や……もっとぉ……♡ 」
凛の目には既に性的な欲望が渦を巻いていた。おまじないに悶え、喜びを身体で表現しその勢いのあまり、ベッドから落ちそうになり、
「ほら、落ちちゃう」
「ゃ……あっ……」
すらりとした華奢な腰に腕をまわし、落ちないように支える。マシュマロのような白肌は熱を持ち、指に吸い付いて……
「柔ら……っ!? 」
思い言葉にした瞬間バッと、すっかり暗闇に慣れた視線をタオルケットの中へ向け、一驚。
「ッ……凛、裸っ……なの……!? 」
「ぅん……ぁ、熱くて…………パンツだけは、ちゃんと……履いてるから……んぁ……♡ 」
強張った指先は凛の肌を圧し、その刺激は
美少年の顔に色香を与え、甘ったるい声を吐かせる。
“ッ!!? 今……一瞬だけ……凛に弟以外の目線をっ……いゃ……そんなわけっ……可愛いけどッ……ダメだ……きっと寝不足で頭がうまく回って……”
「あっ……♡ もぉ……どこ触ってるの……んッ
♡ 」
また、思い耽ってしまった。その間、弾けるように肉の張った臀部に知らず知らず手が触れる。
「ぁうッ……!? ご、ごめんっ! 」
「えっちぃ……♡ はぁ……ぁ……ッ♡ 」
少し甘えん坊で、いつも笑顔の可愛らしい弟
……そんな面影は何処にも無く、興奮に目の縁をぽっと赤らめ、男の子の真っ直ぐですっきりとした脚で、身体に絡めてくる。
「兄しゃ……♡ 兄さんの優しい手……好き……もっと触って……♡♡ もっと……凄いとこ触られても……僕は……」
状況に理解が追い付かず、凛の言葉は最後まで届かなかった。まず耳を傾ける余裕事態が今の愁には無い。只々、自分が出来ること……弟の身体を強く抱き締め、
「ぁ、ありがと……ぉ……おまじないの途中なのに……でも、もう元気はいっぱいだから……これ以上しちゃうと……ぁ、いや、折角のお休みだから、朝ご飯まで、もう少し……寝てよっ……ねっ? 」
平静を装ったが、囁く声は自分でも分かるほど上ずっていた。これ以上、みずみずしい色香を纏った弟の顔を見続けてしまえば、何か分からない、間違いを犯しそうな気がする。
「は……ッ!? ぇ……兄さ……? 」
弟の耳に必死の兄の声が届いたようで、波がひくように凛の手足からは力が抜けて行く。息遣いも徐々に落ち着いて、残ったのは、
「ごめん……ごめんなさい、兄さん……僕……」
いつもの弟、やり過ぎなくらい可愛い弟が、震え、この世の終わりのようにしょげている。
「ううん、兄ちゃんこそ……」
“焦ったけど……うじうじと悩む俺を励まそうと、こんな震えるくらい恥ずかしいことまでしてくれて……本当に……”
ギュ……
「あぅッ……」
「ありがとう……凛のおかげで、本当に元気いっぱい貰ったよ♪ 」
ホッと一安心すれば、弟に対する感謝の気持ちが顔に微笑みとなって浮かび、その体の震えを鎮めようとするように、腕の中の凛を、殊更に優しく抱擁する。
「はぅ……♡ ぅ……うんっ! 」
愁の言葉に、鮮かな曇りのない元の笑顔になった凛は愁の胸に頬を寄せ、
「ごめんね、僕少し寝惚けてたのかな……まだ眠たいし、」
そう言う弟は口元に笑顔を浮かべたまま、途端に目は疲れたようにウツラウツラして、
「このまま……寝てもいい……? 」
「うん、いいよ……兄ちゃんもまだ眠たいから……」
すっかり元通りの凛からは色香は消え、代わりに眠気が瞼にのしかかっている。その見上げる顔の小動物のような可愛らしさを前に、断れる人間はこの世に……少なくとも愁に、そんな選択肢は無い。
「優しぃ……兄しゃん……」
凛の声は徐々に小さくなっていく。瞼は完全に閉じ、それでも口元は微笑んだまま……
「ちょっとだけ……おやすみなさぃ……」
「おやすみ、凛……」
“ありがと……ちょっと、ドキドキしたけど……
本当に……”
すぐに胸元から、すやすやと安らかな寝息が立ちはじめ、その音色は愁に眠気をよぎらせ、
“いつも助言をくれたり、俺の知らないことを教えてくれるし……俺には過ぎた弟だょ……”
「ふゎ……」
眠気に逆らわず、目を閉じる。数日ぶりに意識が朦朧として……
“久しぶりに、しっかり眠れそう……正直……まだ、怖いし……不安だけど、なんとかしなきゃ……これ以上、心配ばっかりさせるの……
いゃ…………”
そう思いながら意識は、夢に沈んでいく。愁と凛は仲睦まじく、つがい の小鳥のように抱き合って眠りについた。
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