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第十六話 葵・慕情 ①

「ハァァ…………」 ため息とともに吐き出す煙、気持ちが落ち込んでいる時の煙草ほど不味いものはない。 それでも吸わずにはいられず薄い唇の間に煙草を加え、ベッドの脇に置いた時計を確認する。 「まだ四時半かぁ……」 愁に好意を伝えられてから一週間、睡眠も浅くまともに眠れず、車の中でも仕事中でも二人の間に流れるギクシャクとした空気感に気持ちは疲れ、 “河邊君……僕のこと……好きだったんだ……” 煙草を押しつける灰皿に溜まった吸い殻は山のようで、捨てる気力も無くなるくらいには気持ちは沈んでいる。 「ハァ……でも……僕なんか、選んじゃダメだよ……河邊君……」 灰皿まで伸びた白く細い右腕、手首から二の腕には嫌でも目に付く傷痕が無数にあり、それは全身に同じように刻まれている…… “君と、お互いに好きあっていたなんて……凄い奇跡だし、多分僕にはこんな幸運……もう二度とない……だけど……” 新たに煙草を指で挟み唇にもっていき、気をまぎらわせるように火を着け、 “河邊君には、見せられない……見せたときの……君の……きみの気持ちが……変わってしまうんじゃないかって……ぼくの前からいなくなっちゃうんじゃないかって……” 考え想像するだけで肩から震えだし煙よりも先に歯の隙間からは声が漏れ、 「ぐしゅ……ぅあ……ァ……」 冷たく頬をつたっている大粒の涙は壊れた蛇口のように止まらず、着けたばかりの煙草の火種を消した。 「ぅ……ぐしゅ……」 一週間あれから毎朝毎夜、葵は身体に取り入れた水分は全て涙に変わってるんじゃないかと思うくらい、気付けば泣いている。 おんおんとベッドに座り泣き続け、また疲れ涙も枯れた。葵は朝食を食べる気も湧かず、時計は五時半、涙の名残で火照った瞼の赤みをシャワーで流し終わり、 「こんなんじゃ……ダメだ……」 洗面台の鏡に映る自分に言い聞かせるように呟く。 “しっかりしなきゃっ……僕が気にしない素振りでいれば、河邊君だってそのうち……僕への気持ちだって薄れて……” 「ぐっ……」 気持ちを切り替えようとそんな事を考えていると、ネクタイを結ぶ自らの腕に首を絞められた…… “だいたい……歳だって十歳も離れてるんだ…… それに河邊君はちょっと天然で不思議なとこもあるけど優しいし、カッコいいし、可愛いから……すぐに可愛い彼女が……って!? ” 駐車場に停まる真っ赤なシルビア、愛車の前まで来て鍵を忘れた事に気付く、それどころかカバンも忘れ玄関の鍵すらも閉め忘れていた。 “でも……彼女とか出来たら……僕のサンドイッチも食べてくれなくなるのかな……? 彼女の手作りの朝ご飯しか食べません……って、言われたら悲しいな……って!!? ” ガコッ…… 黒鉄駅までの最後の信号待ちの最中、ギアを一速に入れたままクラッチペダルから足を離してしまいエンストさせてしまう。十年近く運転している愛車を七日連続でエンストさせたのは葵の人生でも初であり、あまりの恥ずかしさに運転席で一人顔が真っ赤になる。 “ほんとにダメダメだ……いつも通りにしなきゃッ! 下手したら死んじゃう……いつも通り……いつも通り……” キュルル……ブロロロッ…… 鍵を回し再度エンジンをかけ、青に変わった交差点を通過し、 ブォォォォ! プシュ……フォォォォッ…… 見えてくる黒鉄駅、ロータリーのいつもの 位置で待っている愁の姿が見えると、 「ハァ……」 自分に嫌気のさした愁が突然居なくなってしまうんじゃないか、そんな不安は今日も杞憂に終わり、 「良かった……今日も待っててくれて……」 大きく息を吐き、身体中がほぐれるような安心を実感する。 “最近の子は、嫌なことがあるとすぐ仕事辞めちゃうってネットには書いてあったけど…… 河邊君……良い子……” 「ハァ……」 “良い子なのに……僕がこんなだから、君の前だと変に意識しちゃってギスギスして……まともに会話も出来てなかったね……せめて朝の挨拶くらい…………ん? あれ、挨拶って、いつもどんな感じでしてたっけ!? ” おはよう、と当たり前な言葉を見つけるのにも苦労する葵、頭をフル回転させ言葉を探している間に車はロータリーへ、そして…… キキッ…… ブレーキペダルを踏む右足は若干震えながらも、いつもの場所で車を停めた。愁の気持ちを拒んだ事が罪を犯しているような緊張を生み、不眠の疲れもあいまって喉がどんどん狭まっていく、 ガチャ…… そんな事を知るよしもない愁に普段通りに助手席のドアを開けられ口にする朝の第一声は、 「ゴホッ……コホッ……ぉ……ゲホッ……」 悲しくも苦しげな咳で終わった。 「へっ……だ、大丈夫ですかッ!? どこか具合が……」 「コホッ……ぅ……ううんっ……だ、だいじょぶ ……ちょっと緊ち……器官につばが入っただけだから……ぉ……おはよっ……」 「そ、そうですか……良かった……ぁ……おはようございます」 “はぅぅっ……ダメダメじゃんッ!! ただ挨拶するだけなのにぃ……んっ? ” 心配そうな表情で助手席に座り込む愁、手にはいつものバッグともう一つ紙袋を提げており、微かに甘く香ばしい香りがして、つい目で追ってしまう。 “な、なんだろ? 良い匂い……多分お菓子…… 僕にかな? でも何で……” 「涼風さん……? 」 「あっ!? な、なんでもなぃょ……」 ブォォォ………… 愁の呼び声を合図にアクセルペダルを踏んで車を発進させる葵、その顔は頬からみるみると紅潮していく。 “恥ずかしぃ……つい甘い匂いに反応しちゃってた……しかも僕にだって……確定させてたし……” ここ最近、食事もまともに取れる元気のなかった葵、嗅覚は甘い物に関しては特に鋭敏になっており、 “恥ずかしぃ……せっかく河邊君と普通にお話出来ると思ったのにぃッ……” それが羞恥という足枷となってまともに愁を見れず、愁もどこか緊張しているようで話し掛けてもくれず、 “か……河邊君も、こないだから変…… なんか……思い詰めてるような……はッ! ま、まさかっ……!? ” その態度に葵はピンときた。ワガママなのは理解しているが、それだけは嫌でなんとか声をかけようとした時には既に日向に到着しており、 「あっ……河邊く……」 会話もしない間に愁は車から降りてしまっており、声をかけるには遠く既に階段を登りきっていた。 葵と初めて出会った瞬間、お湯のように温かく柔らかく身体のすみずみにまで優しく広がっていった感情は恋だった。 “来たッ……あぁ……早い……もう少し心の準備が……まずどのタイミングで言えば……やっぱり今、着いた時っ……のはずッ……凛っ、結果は分かんないけど兄ちゃん頑張るからッ! ” 一緒に働く事が出来ると決まったその日の夜、愁は生きてきた中で感じた事のないあまりの幸福感に死ぬかとも思った。翌日には何の迷いも無く前々日まで勤めていたバイト先を辞め、出会って二日目から共に働けて夢のようだった……そんな過去が走馬灯のように頭を通り過ぎ、 キキッ…… 目の前には流線形の真っ赤なシルビアが停まり意気込んでドアノブに触れた、 “大丈夫ッ……いつも通りだと思えば…… ん゛ッ!? ” 日向への行きも帰りも二人きりにしてくれて、慣れ親しんだはずの葵の愛車のドアノブが普段の何倍にも重く感じる。 “ッ……指が震えて……力がっ……” 一緒に働いているうちに葵への恋心は愁自身でもコントロール出来ない程に大きくなり、 一週間前、同性であるという壁を撃ち倒して胸の内に秘めたありったけの思いをぶつけ、唇まで奪ってしまった…… 「くッ……」 ドアノブが突然重くなる訳もない、ただあの時から出来てしまった葵との心の距離にひしひしとした罪と恐怖を感じ、頭では分かっていても身体が怯えている。 “涼風さんっ……” 震える手に精一杯の力を込め、開けるまでの三秒にも満たない時間が愁には無限のようにも感じられ、 “このままで……まだ返事も貰えてないし、涼風さんの気持ちは何も分かんない……例え、今日……怒られたって、嫌われたって……耐えられないかもだけど……何も知らない今よりは、絶対にマシだッ!! ” ガチャ…… すくみそうな緊張と恐怖になんとか打ち勝ちドアを開けた愁…… 「ゴホッ……コホッ……ぉ……ゲホッ……」 迎えたのは、意中の人の激しめな咳であった。 「へっ……だ、大丈夫ですかッ!? どこか具合が……」 「コホッ……ぅ……ううんっ……だ、だいじょぶ ……ちょっと緊ち……器官につばが入っただけだから……」 葵は視線がばったり合いそうになると決まりが悪いのか逸らし、恥ずかしいのを紛らわすようにハンドルの方へと顔を向け、 「ぁ……お、おはよっ……」 「そ、そうですか……良かった……ぁ……おはようございます……」 ぎこちない挨拶をくれた。 「はぁ……ぁぁ……ぁ……」 肩から力が抜けていき、小さな小さな葵の耳にも届かないため息を吐きながら助手席に収まる愁、 “あっけなぃ……心って、こんなに簡単に打ち砕かれるの……? ” あの日とは違い、技や身体を鍛練するように、今回は凛に今まで教授された知識を元に自分なりに何度も何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した、 “緊張は覚悟してたのに……” 鍛練であれば鍛えれば鍛えるほど身体が覚え着実に強くなれた、しかし恋愛、特に初恋というものは好きになればなるほど自身が弱くなり、繊細なガラス細工のようにちょっとした衝撃で傷つき砕けてしまう。 愁の決意は想定外の咳一つでタイミングが乱され、ひび割れ、ものの見事に砕かれた…… “な、なにか粉々に砕ける音みたいなのが……どこかで聞こえた気がしたけど……俺かな……? ” そんな心の内情を隠し助手席にちょこんと座る愁。思考と思考を繋ぐ糸も絡まって混乱してしまい頭の中がパンクしそうで、うつ向きまともに葵との会話すら出来ず…… “こんな調子で上手く伝えられるのかな……ぁれ……これ……なんだっけ……? ” 自分の指に引っ掛かっている紙紐はなんなのかすら忘れ、思い出した頃には日向に到着していた。 “今は、何話すかも考えられないし……プレゼントは、お店が終わったあとで……今は……頭、冷やさなきゃ……” 「涼風さん……」 葵も何か考え事をしているようで、やっと発する事の出来た声は届かなかった…… “顔も熱いし……先に行って顔洗って開店の 準備して……とにかく冷静になろう……” 「先に行ってます……」 そう言って伝わったかは愁には分からない、分かるまで待つ余裕もなく先に車から降り、 駐車場から店へと繋がる階段を登っていく。 天窓からの明るい陽射しに照らされ明るい店内には珈琲豆の香ばしい香りが漂い、山の景色を見渡せる大きな窓々に木々達が心地よさそうに青々と風に揺れる光景が映る、そんな客室はランチの時間帯を過ぎた今も席は九割方埋まっており、愁は朝から引き続いて打ち砕かれたままの気持ちで業務をこなしている…… “結局顔を洗っても氷で冷やしても……調子戻んなかった……朝だって、せっかくの涼風さんのサンドイッチ……美味しいはずなのに、食べても食べた気がしない……それにしても……” 主に女性客が多く、夏休みの間常連のように通ってくれる中高生の女子達の他愛もないお喋り、大人の女性方も世間話や噂話のに花咲かせ客室は大いに賑わい、皆それぞれの客席で葵の料理に舌鼓をうっており、 “いいなぁ……俺だって……デートじゃないけど……朝だけは涼風さんと色んなお話しながら……まかない……食べたい……” 「あのーっ、すいませーん河邊さーんっ注文いいですかー? 」 「ぁ……は、はいっ、ただいまっ……」 それが羨ましくてしょうがない愁は、ついその光景を眺めほんの少し前の日常を思い返す事が多くなり、客席からの声やチャイムへの反応が普段より遅れ気味になっている。 “いけないッ……また……” パタパタと急ぎ手の上がる常連の女子高生達の客席へ駆け寄り、 「お待たせしてすいません、追加のご注文でしょうか? 」 「あっ、ぃ……いいんですよ、そんな……ぇと……コレとコレとコレと……」 「あっ、ついでに私もアイスコーヒーのおかわりとぉ……バナナパンケーキッ♪ と……」 内気そうな女の子にメニュー表を指で差さされパッパッと伝えられる注文の最中に、負けじと派手で明るめな連れの女の子の注文も伝票に書き込んでいく、 「河邊さん、彼女さんいるんですかー? 」 「そんな人いませ…………んッ!? 」 どさくさに紛れた質問に流れるように答え、 「ウッシャーッ! やりぃぃッ!! 」 「ほ……本当ですかッ……じゃ……じゃぁ……今度……」 「か……からかわないでくださぃ……」 咄嗟とはいえ答えてしまった事が気恥ずかしくなり、伝票のバインダーで隠す燃えるように真っ赤になった顔、 「ご……ご注文繰り返します……」 「ほぇ……」 「ハァ……」 普段は見る事の出来ない、はにかむ初心(うぶ)らしさは見る者を恍惚とさせ、質問した女子高生達だけで収まらず近くの席の女性陣にもうっとりとしたため息を吐かせ、 「以上で……お間違いありませんか……? 」 「ぅ……えっ!? ぅ……うん……」 「は、は……はぃ……ィ……」 「かしこまりました、では少々お待ちくださいませ」 注文を確認し会釈をして客席から離れていく愁、その立ち去る後ろ姿に女子高生達は目が離せずホォ……と見惚れていた。 “うぅ……年下の女の子のあんな冗談で……また涼風さんのこと……考えちゃった……” 「河邊くーん、こっちも注文お願ーいっ」 「ッ……は、はい、少々お待ちください」 戻りしな、また別の客席からの注文も拾い 厨房へ、 「ぁ……涼風さん、一番様と七番様、十番様も注文入りましたっ」 「は……はーいッ」 客室と厨房の間のカウンター越しに注文を受ける葵は額に汗を輝かせ、厨房を右に左に流れるように移動しながら何品もの料理を同時にこなしている。 “こんなに忙しいと料理の量も大変だ……涼風さん全然休憩出来てない……” 「すいませーん、お勘定お願いしまーす」 “ッ……なのに、あんなに一生懸命頑張ってるんだ……俺も、今は情けなく自分の事ばっかり考えてボーッとしてる場合じゃないッ……仕事仕事……” チィィン…… 客席からの注文のチャイム、振り返ると客が待っている、愁は何度か強く瞬いて頭を切り替え、 「はい、ただいまっ……! 」 客室へと戻っていく。

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