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第二話
「……ん。」
瞼の裏、まだ滲んでる。熱くて、重くて、胸の奥がぐしゃぐしゃで、涙がひとりでにこぼれてきた。
「……また」
……また、あの頃の夢、見ちゃった……
浅い呼吸をしながら涙を拭って、ゆっくり目を
開けたらカーテンの隙間から見えた空は、まだ
朝の色も持ってない。
灰色がかった青色が薄く部屋を染めてて、壁も漫画の背表紙も色味を失ってる。
……僕を助けてくれたのは、あの子――――
うんん。……警察、だった。あの時、警察が来て
僕は、保護された――――はず。
じわっと汗が背中を伝って、長い髪が肌に貼りついてる。ぐちゃぐちゃのシーツ。寝汗で湿った
Tシャツの裾。
なんで、まだ見ちゃうんだ……僕のバカ……
指先を見たら、さっきの夢の中で何かを掴もうとしてたみたいに手が強ばってる。
夢だって、わかってるのに。
心臓の奥がまだ引き攣ってて、さっきまで誰かに押し潰されてた気がする。
もう、現実じゃないって、わかってるのに。
息を吸うたびに、あの脂ぎった手の感触が、喉の奥に残った匂いが、背中の痛みが、全部戻ってくる気もする。
「……はぁ……ああ……も……っ」
右手で乱れた長い髪をかきあげて呼吸を整える。ベッドの横には昨日も観た映画のDVDケース。
足元には踏めもしないほど積み上がった漫画。DVDのプラケースが崩れてる。漫画が積まれた
塔も少し傾いて、まるで瓦礫の山みたいになってる。
狭い寝室、でも、ここは僕の場所だ。
その現実に少しだけ救われて、ゆっくりとパイプベッドの軋む音と共に起き上がった。
「あ……」
そっか……今日はお休みだ。
こめかみに指を当てながら、瓦礫の山の隙間に見える冷えた床に足をつけて立ち上がって、カーテンの隙間から差し込む灰色の朝光を頼りに山を
避けつつ、ふらつく足取りでキッチンへ向かう。
冷蔵庫のドアを開けると、モーターの音と一緒に冷たい風が頬を撫でた。手を伸ばして、ガラス瓶に入った牛乳を取り出す。朝一番の冷たい感触に、指先が少しだけ震えた。
ダイニングの椅子を引き、沈むように腰を下ろして、テーブルの上の紙袋を開けて中からひとつ取り出すと、ほのかに油と甘い香りが立ちのぼった。
コンビニで昨日の夜買っておいたドーナツ。
「甘いの、食べなきゃ……」
無意識にそう呟いてた。
朝は甘いのを食べないと一日が始まらないんだ。
胸の奥の苦いものを薄めてくれる粉砂糖の
たっぷりかかったドーナツ。
「いただきます。」
ぎゅってかじると、ふわっとした甘さが舌に広がって、目の奥がじんわり熱くなった。
「ん~~……美味し……」
いつもの味。甘くて、やさしい。
こんな味、夢の中じゃ一度も知らなかった。
痛いのも苦しいのも、ひと口ずつ溶かしてくれるみたい。
小さな瓶の牛乳。カパって封を開けて、口をつける。
「ごきゅ……ごきゅ……」
ひんやりしたミルクが喉を通って、甘ったるい
口の中をやさしく洗っていく。冷たさが胃に落ちるころには、体の芯が少しだけ軽くなった気がした。
またドーナツに手を伸ばして、残りの半分をかじる。
糖分と脂肪、それから冷たい牛乳。
脳がようやくまともに働きはじめて、思考が
やっとまとまって、なんか……こう、頭の奥の
ほうに、ポッ……て灯りがともるみたいに
「もぎゅ……――――そうだ、水、汲みに行こう。」
思い出したみたいに、声が漏れる。
そう!今日こそは行こうと思ってたんだ。
あそこ。お客さんに教えてもらった
“湧き水がタダで汲める場所”
確かうちのお店の山を挟んだ反対側で、ちょっと遠いらしいけど。
でも、あの人言ってた。
「コーヒーが全然違う味になるんだよ。豆も大事だけど、水はもっと大事なんだから」
あれを聞いてから、ずーっと頭に残ってた。
僕がまかされた喫茶店は、峠を登っていく途中にある。道がくねくね曲がってて、たどり着くまでに車酔いする人もいるくらい。
まぁ、僕は好きなんだけど。
人の多い街中から離れた分、静かなんだけど……お客さんは多くない。週末だって、やっと数組
来てくれればいいほうだし。
貧乏、って言葉がふさわしい暮らしだもん。
毎月ぎりぎり。経費の帳簿をにらみながら、電気を節約したり、豆も安いブレンドを使って……
だけど、それでも「おいしい」と言ってもらえた日には、ほんの少しだけ、幸せな気分になる。
だからこそ、“無料”で、“味が変わる”なんて――
豆を変える余裕なんてないけど、水なら――
それも無料で手に入るなら、なおさらいいじゃない。
窓の外に目をやった。薄く空が白み始めてる。
それに、もしかしたら――
お仕事以外で部屋から出ないから、夢を見るのかもしれない。映画を観て、漫画を読んで、誰とも喋らず、ベッドとDVDと漫画の山に囲まれて、
狭い世界に閉じこもってるから、過去に引きずり戻されるのかも……って、ふと思った。
「うん、ちょっとだけ動こう。」
自分に言い聞かせるように呟いて、ドーナツの
最後のひとくちを口に放り込んだ。糖分がじわっと広がって、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
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