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第三話
小さくあくびをしながら洗面所へ向かう。
鏡に映る自分の顔、水で叩いて口の端についた
白い粉砂糖を落とした。
長い黒髪は寝癖で軽く跳ねていて、指先で整えるくらいじゃどうにもならない。仕方なく濡らした指でざっくりと髪をまとめ、ひとつに束ね、寝室に戻って床に積まれた漫画やDVDの山をまたぎながらクローゼットの前に立つ。
中を開けても、別に選択肢は多くないんだ。
色あせたカーディガン、季節外れのセーターに。
ジーンズは……履かない!なんかこれ安物で、
お尻の部分がすぐキツくなったもん――――
「うーん……これで、いい、かな。」
手に取ったのは、いつもの白いワイシャツ。それに黒のベストと、黒の細ネクタイ。スラックスを穿き、鏡の前に立つ。
やっぱり、これが一番落ち着くか、な――――
体にぴたりと沿うシャツの胸元に、ふと視線が落ちる。うっすらと膨らんだ輪郭が布越しに分かる。昔打たれた女性ホルモンの名残。
「っ……」
見なかったことにしてネクタイを締めて、ベストを着る。手慣れた動作に迷いはない。お休みなのに、まるでいつもと変わらない準備。
これでいいや――――
余計なことを考えずに済むし。それに昔から服には無頓着だったし。何を着ればいいのか、誰も教えてくれなかったし。
鍵と財布をポケットにねじ込み、玄関を開ける。
いつもと変わらないけど、お休みってだけで
早朝の空気は、ひんやりとしていて気持ちいい。アパートの外階段を降りて駐車場に出たら、朝露を背負った僕の愛車シルビィ――――
真っ赤なシルビアS15が待ってる。
ちょっと古くて燃費も悪いけど、エンジンの鼓動は僕の心とどこか似ているこの子だけは、昔から手放せなかった。
どんなに生活が苦しくても、この子だけは。
「行こうか、シルビィ。」
ドアを開けて乗り込み、キーを回す。
ブォン、と小気味よいエンジン音が駐車場に響いた。誰もいない。
僕とこの子だけ。
ハンドルを握る感触に、じんわりと指先が熱を持っていく。
シフトノブを一速に入れ、クラッチを踏み、
アクセルも踏み込むとシルビィはゆっくりと、
タイヤでアスファルトを刻みながら走り始める。
まだ朝焼けの気配の薄い空の下、木々の影が
斜めに道を横切る。舗装されてても、ちっとも
滑らかじゃないこの峠は、普段ならお店に来る人も嫌がるほどのくねくね道。
でも、僕にとっては違う。
曲がり角を見つけるたびに、身体が前のめりになる。ハンドルを切ったら、タイヤがちょっと
鳴いた。
荷重移動とアクセルワークでリアを滑らせて、
ドリフト気味に抜ける。
「……ふふっ」
声が漏れる。少し開いた窓から風が巻き込んで、髪が揺れる。夢の中の汚れや重さが、少しずつ後方へちぎれていくみたい。
滑らかに回るエンジン音と、峠の空気。早朝の
道路はまだ車も通らず、世界は僕とシルビィだけのもの。
軽快に走り続けて、あっという間に峠の中腹らへん、見慣れた建物が見えてきた。
店の下にある道路に面した駐車場の一番端っこに、いつも通りシルビィを停めた。
五台分くらいの小さなスペース。定休日だから
どこに停めてもいいんだけど、端っこに停めるのは僕の癖になってる。
車を降りて、なんとなく見上げた、そこには木立に包まれるようにして建つ喫茶店「日向」。
黒と白のコントラストが印象的な外壁も、緑の影に隠れてて、正直ここからでも見えづらい。
お店の正面には、広めのウッドテラスが張り出してる。そのテラスから続く階段が、ゆるやかな
カーブを描きながら、今まさに僕が立つ駐車場へと繋がってる。
「……ほんと、絵本みたいだよね、うち。」
思わず漏れた言葉に、自分で小さく笑ってしまう。
もともとは築三十年の別荘だった建物を、前の
店長が趣味でリノベーションしたもの。
けど、そんな素敵な空間も──うんん、素敵だからこそだろうけど──なかなかお客様が増えない。
峠の真ん中なんてとこに、こんなぽつんって隠れるようにして建っているんだから。
「隠れ家すぎるんだよね、うち……」
ため息混じりに言いながら、テラスへ続く階段を、トントンと上がって正面のドアを開ける。
天窓からのやさしい明かりに照らされる静かな室内は、前の店長の趣味だったアンティークの
照明や雑貨でいっぱいで、どれも良いバランスで吊られてたり置かれたりしているから配置を変えたことはない。
おかげでお掃除は大変だけど、異国の古いカフェに迷い込んだみたいな雰囲気だけは漂わせてる。
「……明日は、誰か来てくれるかな。」
ぽつりと、また口から勝手に溢れた。
誰もいない空間に、自分の声がやけに響いてしまって、思わず「しっ」って口元に指を当てた。
バカみたいだけど、こうやって誰かと喋るみたいにしてないと、ほんとに誰もいないって気持ちになっちゃう。
人を雇う余裕なんて、ない。お客さんも多くないし、しかもこんな見つけづらいお店にわざわざ
来てくれる奇特な人なんて――――
けど、だからって、全部ひとりでやってると……たまに、寂しくなる。
「誰か……か。」
いけない……こういうとき、気を抜いたらだめだ。気分が沈んじゃったら、またあの夢を見てしまうかも。
「っ……ちがうちがう。今日は、朝からやれることがあるんだから。」
首をふるふると振り、自分に言い聞かせるみたいに口に出して、それから小さく息をついた。
僕の仕事はコーヒーを出すこと。だったら、
美味しいお水を汲みに行くって、それだけのことだけど、ちゃんと意味がある。
『また来たい』ってお客さんが思ってくれたら――――
「よし……」
小さく気合を入れて、カウンターの奥、厨房へ足を運び、大きなポリタンクを二つ、車のトランクに積み込んだ。
ちょっとした重労働だけど、でも、頑張らなきゃ。
再び運転席に戻り、エンジンをかける。
朝は、少しずつ明け始めてた。空の端っこが青くなってきて、木々の葉っぱが風に揺れてた。
シートベルトを締めてギアを入れると、真っ赤なシルビィは駐車場を出て、再び山を登り始めた。
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