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第五話

 やっとの思いで石段を登りきった。噂のお水を汲み終えたころには、もう膝が笑ってた。 「はぁ……はぁ……」 タンクの中は、透明できらきらした冷たいお水で満ちてる。 だけど、これ、凄く……凄ーく重たい。 肩から腕までパンパンで、ふらふらの身体で引きずるみたいに階段の手前まで運ぶだけで、もう、一仕事どころじゃない。 「はぁ……はぁ……はぅ……」 下を見下ろすと、石の階段は相変わらずの長さで、見ただけで足がすくんじゃってる。 その途中を、地元の人なのか、お爺さんやお婆 さん達が二、三人、まるで近所のスーパーにでも行くような軽やかさで似たようなサイズのタンクを抱え、すいすい降りてく。 「はぁ……僕の方が、若い、はず……負け、て……ら、らんない……」 小声で言って、そっと一歩目を踏み出した―――― その瞬間。 「――――はぅっ!!?」 ぐらっ、て視界が傾く。 革靴のつま先が石の角に引っかかって、身体が 空を舞った。 あっという間だった。 タンクの取っ手から離れた僕の手のひらは何も 掴めなくて、もう、転がり落ちる未来しか想像できなかった。 頭を打ったらどうなる?身体は……ああ、死ぬかも……――――そう覚悟して目を閉じた、その刹那、 ふわりと、僕の身体は抱きとめられた。 柔らかい、けれどしっかりとした腕の中に、 身体はすっぽりと収まってた。 ゆっくりと目を開けると――――――――ッ!!」 僕は、息を呑んだ。 黒髪の少年だった。 漆みたいに深い黒髪。額にかかった前髪が風に 揺れて、顔の輪郭を際立たせてる。 瞳は暗くて、赤くて、とってもキレイ。 何度も夢で見た、あの少年と同じ色。 だけど、その瞳は今、柔らかく光ってた。 「大丈夫ですか? どこか痛みはあります?」 低くも高くもない、落ち着いた声。 そっと僕を支える腕は細いのに、不思議と安心できる力強さがあった。 香水なんかじゃない、自然な匂い。森の匂いの中に、少しだけ石鹸みたいな清潔な香りが混じってて……あぁ、頭が真っ白になって―――― 「あの……?」 「はぅ!? あ、え、っと、あの、にゃ、ないです、おかげさまで、あ……ありがとう、ございます……」 情けないくらい、声が震えた。 目の前に、この世のものとは思えないほど綺麗な少年がいて、僕はその少年の腕の中。 お胸が――――というか、全身がトクントクンって 鳴ってて、もうどっちのドキドキかわかんない。 落ちかけたせいなのか、この少年のせいなのか。 「立てますか?」  「は……ぅ、うん……なんとか」 「よかった……水、重そうなので……よかったら、車までお運びします。」 少年は何段か下に落としたタンクをちらりと見てそう言ってくれた。あのタンク意外と頑丈だった。 「え……ぁ……でも、そこまでは……」 「遠慮しないでください、ね?」 「はぅ……」 首を少しだけかしげて少年は笑った。 その笑顔がまた反則みたいにキレイで、顔を見てるだけで何も言えなくなる。 気づいたら少年は水のタンクをふたつとも、 ひょいと持ってて……僕は、ただその背中を追いかけてるだけだった。  少年は、僕がシルビィのトランクを開けると、 中にタンクをそっと収めてくれた。 「本当に、ありがと……」 「いえ、それではお気をつけて……」 「ぁ、あのさ……っ!」 思わず、口が勝手に動いてた。 「よ、よかったら、うち、喫茶店やってて…… ぁ、あんまりたいしたものは出せないけど、 朝ごはんとか、ごちそうさせてほしい、なって……その、お礼に……」 きっと顔、真っ赤だ。 視線も合わせられないまま下を向いてたら、 「嬉しいです。ご迷惑じゃないなら……ぜひ」 また、優しく微笑むその声が耳をくすぐった。 嬉しいって、今、言ってくれたよね? たぶん、それだけの言葉で、今朝からずっと沈んでた気持ちのどこかが、そっと浮かび上がった気がした。 少しだけ、胸を張って運転席に戻った。 でもそのドキドキは、まだしばらく治まらなさそうだった。 ――――僕、もしかして……いや、違う。……違う、よね? 助手席に座る美しい横顔を、ちらりと見て、また心臓が跳ねた。

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