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第六話
「ここだよ。」
車を駐車場に停めて、二人で階段を上がる。
喫茶店――「日向」。
少年――じゃなくて、まだ名前も知らない彼は、あの重たい水のタンクを二つひょいと両手で持って、軽々とウッドテラスを通って、僕が店の扉を開けたら入口にタンクを置いてくれた。
「ぁ、ここまでで大丈……あ、でも……よかったら厨房まで、お願いしても……いい、かな?」
「もちろんです」
短く微笑んで、彼は店の中へと進んでいく。
板張りの床を踏む、彼の足の音さえ心地いい。
趣味全開なアンティークの照明、色とりどりの
陶器、レジ横に無造作に置かれた古書たち。
僕の落ち着くこの空間を彼がどう思うかちょっと不安だったけど……
「すごく素敵なお店ですね」
「そ、そう?ありがと!」
ふいにかけられたその言葉に、なんだか嬉しくて胸がじんわり温かくなった。
水を置いてくれた彼をカウンター席に案内して厨房に戻った僕は、すぐに玉子サンドを作りはじめる。
これだけは、誰に出しても褒められるから。
ふわっと甘くて、とろけるような厚焼き玉子を、ふんわり白いパンでそっと挟む。
汲みたての水で淹れたアイス珈琲も、氷を静かに鳴らしながらグラスに注いで。
カウンターにサンドイッチと珈琲を並べて、
「……どうぞ、召し上がって」
「わぁ、いただきます」
なんか、いつもよりドキドキする。
彼は、ゆっくりと手を伸ばしてサンドイッチを
一口――――
その瞬間、ぱあっと顔が明るくなって。
「おいしい……凄く、美味しいです!」
そんなふうに、真っ直ぐな目で言われるの久しぶり。
ヤバい、僕、今、ほっぺが熱い……それに、
きっと変な顔してる……にやけてない、大丈夫
かな……
続けて珈琲を手に取り、氷の音を鳴らして口元に運んだ彼は、ひとくち飲んで、ぴたりと動きを止めた。
「ん、どうかした?」
「ぁ……いえ……その」
「あ、ひょっとして苦いの苦手?」
「……あの、すこし……」
目を伏せる仕草が可愛くて、思わず笑ってしまった。
「ふふっ♪ミルクとお砂糖、たっぷり入れちゃおっか?」
「……お願いします」
その素直さに、またお胸が跳ねちゃって、もう、
どこまで僕の心臓は忙しいんだろ……
ミルクを多めに入れて、スプーンでやさしく混ぜながら彼を見た。
本当に夢みたいに美しい顔。けど、こうして目の前で、サンドイッチを美味しそうに食べてる姿は、なんだかとても、現実の温度で――――愛しく思えた。
「……あの、少しだけ聞いてもいい?」
サンドイッチの空いたお皿を下げて、アイス珈琲のグラスの氷がカランと鳴ったタイミングで、ふと気になったことを口にした。
なんとなく年齢不詳な雰囲気がする彼。
この整った顔立ちも、静かな口調も、まるで少年と大人の間で、どこにも属していないような。
「君って、今いくつなの?」
彼は一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ照れたように笑った。
「十八です。……今年の春に、高校を卒業しました」
「えっ……十八歳……」
思っていたより、若かった。
でも、この落ち着いた話し方も、ふとした気遣いも、僕にはすごく――大人びて見えて。
「じゃあ、今は大学……?」
「いえ、進学も就職もしてなくて……ちょっと、いろいろと迷ってしまって。」
ここからは、二人でしばらく話した。
最初は年齢のことから始まって、天気のこととか、この峠の話とか、それから好きな映画の話で
盛り上がって……どうでもいい雑談だったのに、
気付いたらお店のことまで話してた。
「屋根、ちょっと雨漏りしてるんだよね……
まあ、年数考えたら当然なんだけど……」
「直さないと、大変じゃないですか?」
「うん。でも、大工さんに頼むほどの余裕は……。」
「……」
「それにお掃除も広いから大変だし、手入れも
いろいろ一人でやるとさすがにね。それに夜に
なると、ちょっと怖いというか……」
ぽろりと、寂しいって言葉が、心の奥からこぼれ落ちそうになったとき、
彼が、ぽつんと呟いた。
「……好きです」
え――――――――
一瞬、時間が止まりました。
凄い勢いで心臓が跳ねて、息が止まりそうになりました。
好きって……僕のこと?
さっき、出会ったときから……?
いや、いやいや、そんな映画みたいな――――
でも、でも、こんなに穏やかで優しい子から、「好き」なんて言葉、言われたら……
「あ……あの、えっと、それって……」
顔が熱くなって、言葉がつっかえる僕に、彼は続けました。
「ぁ……の、このお店の雰囲気。すごく、好きです。……それに、もし一人で全部やるの大変
だったら、よければ……俺に、手伝わせてもらえませんか?」
「……は、え?」
ああ……あぁ、なんだ……
……でも、なんだろう。
勘違いして、ちょっと嬉しかった僕がいた。
バカだな、僕。でも、すごく……あったかい。
言葉はちょっと違うけど、誰かに
「一緒にいたい」って言ってもらえるのって、
こんなに嬉しいことなんだ。
あぁ……嬉しい……凄く嬉しいけど、でも、一つ
とっても大きな問題がある。
「あぅ……そう言ってくれて嬉しいんだけど、
でもうち、その、お客さん少ないからお給料とか……」
「ぁ、ご、ごめんなさい……俺、初対面でこんなわがままな事言って、困らせていますよね……」
彼はそう言いながら、少し恥ずかしそうに下を向いて、それでも、真っ直ぐに言葉を選んで続ける。
「でも、ここ、とっても居心地よくて、好きに
なってしまって……ここで働けたら何より嬉しいだろうなって、それにさっきのサンドイッチも
すごく美味しくて……お金よりも、大切なものがここにはある気がするんです。」
その言葉を聞いて、思わず返事に詰まった。
冗談半分でも、こんなこと言える子なんて映画の世界にもなかなかいない。
「……お給料も、ほんとに最低限で大丈夫です。実家に住んでますし、今は生活に困ってないんです。だから、無給でも全然……」
僕の口元は自然と緩んでた。
「ふふっ、若いんだね……」
言いながら、お胸の奥、じんわりと温かくなっていくのがわかった。
「店は任せた」って突然言って前の店長が出てった時も、ずっと一人で頑張るつもりでいた。
誰かを雇う余裕なんてないし、それに、こんな
場所、どうせ誰も来てくれないって――――どこかで諦めてた。
でも、今こうして目の前にいる彼が、迷いもなく「ここで働きたい」と言ってくれてる。
このお店が好きだって――――
僕の作るサンドイッチを、おいしいって言ってくれた人が――――
なんか心の奥に、そっと光が差し込んだ気がして
「……ありがとう、そう言ってくれるの、すごく嬉しい……」
笑ったつもりだったけど、どんな顔をしていたのか、自分ではわからなかった。
ただ、顔が熱くて、胸がいっぱいで……
「それじゃ……」
「お給料無しって……そこまで甘えるわけにはいかないから、大した金額じゃないと思うけど、
ちゃんと出せるだけは出すからね……」
「……ほんと、ですか?やった……!」
穏やかで優しそうな子だと思っていたのに、
両手をぎゅっと握って、声まで小さく弾ませて、子どもみたいに素直に喜ぶその姿、
「頑張ります、何でもします。お店のことも、
お掃除も、仕込みも。えっと……迷惑かけないように!」
静かだった口調まで早口になってて、まっすぐな目で僕を見てくる。くるくると変わる表情に、
ふわふわの髪が揺れて――――
ほんと可愛い。そんなふうに目を輝かせて――――
まるで、ずっと前からここを夢見てたみたいに、心から喜んでくれるなんて。
「ふふっ、よろし……ぁ!」
手を差し出しかけて、ふと気づいた。
「……?」
「……そういえば、僕達、まだお互いに名前……
知らないね。」
「ぁ……はは、そういえば、そうですね……」
彼は微笑んで、僕の差し出したままの手をそっと取ってくれた。
「ぁう……」
その手はあたたかくて、また心臓が忙しくなってきた。
「あらためまして、俺、月美 愁です。
……よろしくお願いします。えっと……」
その声は、夏の光みたいに柔らかくて。
まだ鼓動の速さに戸惑ってる僕の心を、包んでくれるみたいだった。
「ぁ、す、涼風、涼風 葵です。よろしくね……
えと……月美君。」
「はい、よろしくお願いします……涼風さん。」
この出会いが、今まで生きてきた中で、いちばん嬉しい奇跡だなって、僕は、もう感じはじめてる。
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