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第八話
昨日から、ちょっとだけ楽しみで眠れな
かった。別に、そんな特別なことをするわけじゃない。ただのいつも買い出し、お仕事の延長。
でも、月美くんと一緒だと思うだけで、それは
もう僕にとって「特別」な気がして。
朝、シャワーを浴びる時、昨日の帰りがけに
買った新しいトリートメントを使ってみた。
ずっーと気になっていたけど高くて、何となく
勿体ないなって思って買えずにいたやつ。
シャワーの中で髪に指を通すと、すぐに違いが
わかった。するりと流れるようで指先にひっかかるとこがない。
ドライヤーの後も、いつもよりさらさらで、艶がある気がした。
身嗜みは、仕方なくいつもの仕事着。
白いYシャツに黒のベスト、ネクタイ、黒いスラックス。だけどアイロンのかけ方ひとつ、
ネクタイの締め具合ひとつに、少しだけ気を遣ってみたりした。
10時に、駅近くのいつものコンビニ前で待ち合わせ。遠くから僕の車を見つけて、ちょっと駆け足でこっちにくる月美くんの姿。
少し風にそよぐ髪と、白い半袖シャツに淡いブルーのデニム。初めて出会った日と似た感じの格好なのに、あの時よりキレイで、まぶしくて――――
僕が一瞬言葉を失っちゃってる間に月美くんは、いつも通りに助手席に乗り込んできてた。
「お待たせしました、涼風さん!」
「っ……ぉ、おはよう。そんな走らなくてもいいのに」
「いえ。涼風さんをお待たせしてはいけないかなって……待たれました?」
「ふふっ♪いまさっき着いたばかりだよ。」
嘘です。三十分前から待っていま……
「……!?」
ふと、月美くんが助手席から顔を寄せて、
その鼻先が僕の首元の辺りでふんわり揺れた。
「涼風さん……今日、いつもより綺麗です。
髪、すごく艶があるし、とってもいい匂いがしますよ」
「えっ、あ……ほんと……? ありがと……」
頬が熱くなった。
月美くんのこの言葉だけで、朝のトリートメント代、余裕で元が取れた。
買い出しは、まずはホームセンターから。
パイプの修繕用具とか消耗品を買い足したり。
カートを押す月美くんの背中を、つい目で追ってしまう。重たい荷物にもちっとも動じなくて、
段差も滑らかに越えて、あの細い体のどこに、
あんな力があるんだろ――――
……ほんと、かっこいい……かっこいいから――――
行く先行く先、ふいに現れる女性たちが声をかけてくる。
「ねえ君、モデルさん?」
「高校生じゃないよね? どこで働いてるの?」
「写真、撮らせてもらっていい?」
「Lime交換しね?よかったらめし一緒に
どう?」
何回も何回も笑って断る月美くんの姿は柔らかいけれど、どこか淡白で、なんか心を開いていないように見える。
なのに見ているだけで、胸がざらざらした。
そんなふうに月美くんを見られてるのが……
ちょっと、嫌だった。
お昼ごはんは、歩き疲れて入った小さな
ハンバーガー屋さん。窓際の席に向かいあって
座って、僕はポテトを口に運びながら、ふと月美くんに言った。
「……さっきから、モテモテだったね。」
「そうですか? ただ声かけられただけですよ」
笑う顔は無邪気で、胸がきゅってなる。
隣の席の女子高生たちがひそひそと視線を向けているのにも、本人はまるで気づいていない。
僕はポテトを一本つまみながら
「道行くたび、声かけられてたじゃん。……モデルに間違えられたりとか」
「え、と……」
言うと、月美くんは手を止めて、とたんに、少し顔を赤くして俯いた。
「そんなの……俺、全然。慣れてないです、そういうの……」
「でも、きっと月美君、女の子にすごくモテるよ。顔も綺麗だし、背も高いし、雰囲気も柔らかいし……」
「涼風さん」
月美くんが、不意に僕を遮るように言った。
その声は少しだけ強くて、けれど揺れていた。
「……俺、そんな、誰でもいいわけじゃないです」
「……ふうん。じゃあ、どんな人が……好きなの?」
自分でも、少し意地悪な言い方だったと思う。
口調は軽く、笑っているのに、心の中はずるずると黒く沈んでいってた。
この質問の意図も、何を求めてるかも、わかってた。
でも――月美くんは、ハンバーガーを見つめたまま、答えなかった。
代わりに、うっすら赤くなった耳と、そっと僕を盗み見るような視線が返ってきた。
その視線が、言葉にはならなかったけど、そこに含まれた想いが、痛いほど伝わってくる。
月美くんは、言えないだけで――――
きっと、もう答えてくれてた。
僕の胸の奥が、きゅうっと音を立てて縮まった。
嬉しい。でも、同じくらい怖い。
月美くんは十八歳。
僕は二十七歳、そして――――汚れている。
手に残るハンバーガーの温もりも、ポテトの塩味も、ぜんぶ曖昧になってく。
でも、月美くんの赤い瞳だけは、はっきりと焼きついて離れなかった。
お昼ご飯を終えてお店を出ると、夏の午後の
陽射しが街路に影を落としてた。
けど僕の心の中は、どこか曇ったままだ。
言葉にはならなかったけれど、月美くんのあの
視線。まるで、何かを伝えようとして、けれど届かないまま引き戻されたみたいで――――
……もし、そうだったとしたら
僕は、自分を抑えられずにポケットの中で拳を
ぎゅっと握った。
「あの、涼風さん、次はどこ行きます?」
「……あ、えっと。珈琲豆屋さんだね。豆とフィルター、在庫少なかったから」
「はいっ」
月美くんの返事は変わらず明るくて、そんな風に
屈託なく笑ってくれる彼と並んで歩くのが、
さっきより少しだけ苦しく感じてしまう。
珈琲豆屋さんに入っても、彼は店主の話を真剣に聞きながら、珈琲豆の違いについて僕に尋ねてきたり、興味を持ってくれたりする。
本当に、真面目で、可愛くて、そして――綺麗だ。
店の奥さんにも「まあまあ、素敵な彼氏さんね」と冗談交じりに言われて、
僕は慌てて否定したけど、月美くんはただ微笑んで、何も言わなかった。
……僕は
なんだか、無性に、情けなくなってきた。
彼と並んで歩いているだけで、誇らしくて、嬉しくて。
でもそれ以上に、僕の汚さが照らされるようで。
こんな過去のある僕が、彼の隣を歩いてていいのかな……
十年前のあの部屋。
売り物にされて、傷つけられた身体。
その痕は今も僕の肌に残っている。
今さらキレイな誰かの隣に並ぶなんて、笑われちゃうんじゃないかな……
そう思えば思うほど、足取りが少しずつ重くなってく。
それでも、月美くんは隣にいた。
ホームセンターでも、珈琲豆屋さんでも、雑貨屋さんでも。荷物を持つのを手伝ってくれて、僕が忘れそうな細かなものまでメモにしてくれてて。
本当に、役に立つ。優しい。
……そして、たまらなく、可愛い。
夕方、すべての買い出しが終わり、車の後部座席とトランクに荷物を積んで「日向」に戻った。
重たい荷物を厨房に運び終わって
「……疲れたね。」
「いえ、とっても楽しかったです」
「そっか」
何気ない月美くんのその一言が、なぜか胸に染みた。
……そうだ。
きっと僕、欲張りすぎてる。
月美くんの隣を歩けるだけで、彼と笑いあえるだけで、ほんとに十分幸せなんだ。
たとえ彼がいつか別の誰かを好きになっても、
ここを辞めたいって言っても、笑っていられるように、送り出せるようになりたい。
この時間を大切にして、無理に手を伸ばすことなんて――――しないように。
「月美くん、ありがと。今日はすごく助かっちゃった」
「俺の方こそ……いろんなお店、一緒に連れてってもらえて楽しかったです」
「そっか……じゃあ、明日からまた、頑張ろうね」
そう言って微笑んだ僕の声は、少しだけ震えていたかもしれない。
でも月美くんは、何も言わずに笑ってくれた。
そしてその笑顔がまた、僕の決意を優しく貫いて、心に小さく刺さった。
「……涼風さん?」
「……あ、ご、ごめん、ちょっとボーっとしちゃって、さっ、帰ろっか!」
僕は、本当に……
何も言えないまま、店を出た僕らを夕日のオレンジ色が包み込む。僕は扉の鍵をゆっくりと閉めた。
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