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第九話

 月美くんと出会って、もう三ヶ月。夏も終わりかけの、九月になった。 朝晩は少し涼しくなって、木々の葉の端にうっすら色がつきそうな気配が見え始めた頃―――― 僕らの喫茶店「日向」は、ここ二ヶ月くらい、 信じられないくらい繁盛してた。  始まりは、たった一枚の写真だと思う。 けっこう前から常連のお爺さんが、夏休みで遊びにきたっていう孫娘と一緒に来店して。 そのとき客室にいた月美くんが、優しい笑顔で お爺さんのカップを満たす姿を、彼女がスマホで撮って、軽い気持ちでSNSに投稿した。 それだけ。 けれど、その投稿がバズったらしい。 あの美しい少年が働く喫茶店―――― そんな言葉と一緒に、月美くんの写真は一瞬で 広がって、峠の真ん中の小さなお店は、僕らの 知らないうちに“聖地”になってた。 今では開店の少し前からお店の下の駐車場が埋まりはじめて、道路を挟んだ向かいのバス亭から 道に沿って女性たちの長い行列ができてる。 制服を着た女子高生たち、県外からキャリーバッグを引いた若い女性達、いつもは街中のお洒落なカフェでお茶をしていそうな主婦のグループ、 趣味の一眼レフをライフルみたいに下げた年配の女性。世代もファッションもバラバラなその列に、共通してるのは全員が 「月美 愁を目当てに来ている」ということ。  月美くんは相変わらず落ち着いて接客しているけど、毎日が文化祭のような騒がしさだ。 「すみませ〜ん、ミルク追加でください♡」 「コーヒーもう一杯いいですか? あっ、できれば月美くんに持ってきてほしいな……なんて」 「このカップ、ちょっと欠けてるみたい……取り替えてもらえる?」 次々と上がる声に、客席のあちこちでふわりと 手が挙がる。それでも嫌な顔ひとつせず、笑顔でコーヒーを運んで、優しく注文を聞いて、一人 ひとりにきちんと応対してくれてる。 その姿を見て、お客さんはまた虜になって―――― 写真や動画を撮ろうとする人も後を絶たない。 正直、売上は……ほんと、びっくりするくらい 伸びてる。 買い出しの頻度が増えるなんて、一人の時は ちっとも想像してなかった。 カウンターのレジ横には行列ができて、厨房は てんてこまい。僕ひとりじゃ、絶対に回らなかった。 本当は、もっと喜ぶべきなんだろうけど―――― 「ありがとうございました〜!」 笑顔で手を振る女性たち。 その頬はほんのり赤くて、足取りもなんだか軽やかで、まるで恋でもしているみたいに幸せそうだった。 その背を見送りながら、僕はそっと視線を落とす。 ――――あんな顔、僕にはもうできそうにない。 胸の奥が、きゅうっと音を立てるように痛い。 僕じゃ、ない…… 月美くんに集まってくる視線は、僕のものじゃない。 ただの雇い主、ただの店長。年齢も違うし―――― 過去に心も身体も汚された僕なんか、あの キレイで優しい月美くんの隣に立つことなんて、許されない。 それでも……どうしようもなく惹かれちゃう。 この気持ちはもう、しまっておくって、忘れようって決めたのに。 あれから何度も自分に言い聞かせたのに。 客室で誰かに笑顔を向けている月美くんを見るたび、また、苦しくなる。 そんなことが、続いたある日。 その日は朝から曇っていた空が、午後になって とうとう雨を落とした。 静かに、けれど確かにテラスを濡らしてくる細い雨粒が、閉店の頃には雷鳴を伴う本格的な嵐になった。 雨が降ろうと忙しかった店内も、ようやく静かになって、片付けが終わったあと、厨房の棚の上の方に置いてた補充品を出さなきゃいけないことを思い出した。 いつもなら月美くんに頼むけど……なんだか、 今日は頼みたくなかった。 僕だって、やればできる。そう、ただの意地だった。 椅子の上に立った僕を見かけた月美くんは 「涼風さん、それ、こちらの掃除が終わったら俺がしますよ」って言ってくれた。 けど「僕がやるからいいよ」って断った僕に、 「危ないですから、俺が――」って 月美くんは手を伸ばしてくれた、けど 「別に、いいって言ってんじゃん……!」 なんて、僕はその手を子どもみたいに突っぱねた。 自分でも驚いた。愁くんも驚いた顔をしたけれど、僕の手元をずっと見てた。 その瞬間―――― 轟音が鳴って、お店が、厨房が、一瞬で暗くなった。 「うあっ!?」 急に静まりかえって、心臓が跳ね上がった瞬間――足元が空を切った。 「……ッ!!」 椅子が倒れて、身体がふわっと宙に浮いて―――― でも、落ちた痛みはこなかった。僕の身体は、 月美くんの腕の中にいた。 月美くんは僕を庇って作業台に背中を強く打ち つけたのに、僕のことをしっかりと抱きしめて 離さなかった。 「涼風さん、大丈夫ですか?痛いところ…… ありませんか?」 暗がりのなかで、月美くんの声がやけに近くて、温かかった。 「ぁ、う……だ、大丈夫……って僕なんかより、 月美くんこそ!」 ごつんって音がするぐらい強く背中をぶつけて、きっと痛いはずの、月美くんはそのまま僕を 抱き寄せて、床に腰を下ろして 「俺は平気……です、それより、涼風さんに…… お怪我がなくてよかったです。」 言いながら、そっと優しく背中を抱いてくれる。 僕は……情けないほどに震えていた。 雷が怖かったのもあるけど、きっと違う。 この胸の奥の、ぐちゃぐちゃな感情に、耐えられなくなってたんだ。 「……ごめ、ね……月、美くん……」 言葉にならなくて、声が震えた。 「気にしないで、俺が勝手にやったことですから……ね?」 「あぅ……でも、月美く……背中……」 「涼風さんの、震えてることの方が心配です……落ち着くまで、こうしていたいんですが……いいですか?」 その声にすがるように、僕は彼の胸に顔を埋めた。どこまでも優しくて、真っすぐな月美くんの心の温度が、頬に、心に染みてく。  そのまま、暗がりの中で、どれくらい見つめ合っていたんだろう? 雷の音が遠くなっても、お店はまだ暗いままだった。非常灯の淡い明かりがぼんやりと厨房の奥にまで届いてて、月美くんの顔をかすかに 照らしてた。 「……大丈夫ですか?」 そう囁く声が、僕の耳元に優しく聞こえる。 僕を庇ってくれた月美くんはまだ床に座った まま。 「うん……もう、僕は……」 僕は小さく頷いた。月美くんの胸に手をあてて、そっと顔を上げると、すぐ目の前に月美くんの 瞳があって、まっすぐに僕を見つめてる。 「月美くん……背中は痛くない?あとで見せて……確か救急箱が……」 「俺も、大丈夫ですよ……」 深くて、静かで、それでいてどこまでも優しい瞳。この瞳に見つめられてると、さっきまでの 怖さも、ぐちゃぐちゃだった感情も、どこか遠くに溶けていく気がした。 外のざわめきも、もう感じない。 ただ、月美くんの呼吸だけが近くて、熱くて――――心地よくて。 僕は、ふと気づいた。 僕達、見つめ合ったまま、どちらからともなく、ほんのちょっとずつ身体が近づいてることに―――― 「涼風さん……」 「ぁ……月美、くん……」 月美くんの瞳が僕の唇を見てる。 僕はその視線を受け止めたまま、息を止めて―――― そして、すぐに月美くんの熱い吐息が僕の唇に 触れた。 ほんの一瞬――――迷うみたいな沈黙。 それから、そっと、唇が重なる。 柔らかくて、温かくて、甘くて、切ない。 心と心を溶かし合わせるみたいに、ゆっくり、 丁寧に触れるキス。 離れそうで、離れない。 押しつけるでも、奪っていくでもない、ただ、 確かめ合うみたいに重ねた口づけに、僕は静かに目蓋を閉じる。 こんなに優しいキス……知らなかった……知って しまったら、もう戻れそうにない…… 唇が離れる瞬間、月美くんの鼻先が僕の頬に 触れて、僕は目蓋を開けて、もう一度月美くんを 見つめる。 月美くんの赤くて暗い瞳の奥に、僕がいた。 汚れているはずの僕が、こんなに澄んだ眼差しに、こんなに大切そうに映ってるなんて…… なんだか、胸が苦しくなった。

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