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第十一話

 翌朝、駅前のコンビニ。時間は、いつも通り。僕はずっと落ち着かないまま車の中で待ってた。 「おはようございます、涼風さん」 助手席のドアを開けて、いつもみたいに穏やかに挨拶する月美くんの声。 けど、僕は少し顔を逸らしてしまう。 「……おはよう」 短く返した声は、なんかぎこちなくて。 月美くんも、すぐに察したんだろう、僕の横顔を見ながら、それ以上は何も言わなかった。  そんな僕らのぎこちなさなんて気にすることもなく、喫茶店「日向」は今日も大忙しだ。 駐車場は常に満車で道沿いには空くのを待つ車の行列。バス停からお店の扉の前まで続く女性客の開店前から行列。 嘘みたいに繁盛してた。 月美くんは、誰よりも輝いていた。 女子高生たちは月美くんの笑顔に頬を染め、主婦たちは「娘にもあんな子がいれば」と羨ましげに囁いてた。 月美くんはどのお客さんにもおんなじ笑顔で接客して、どんなに混んでても手を抜かないで、 皆その美しさと、丁寧な対応にうっとりしている。 ――――だから、余計に苦しかった。 「……終わったね」  閉店時間。僕の声に、月美くんは「はい」って いつもみたいに微笑んだ。でも、今の僕には、 その笑顔さえ痛い。 手慣れた動きで椅子をテーブルに上げて、テラスの扉を閉めて、カウンターを拭く。その間、ずっと胸の奥に重く沈んだ言葉を抱えたまま、僕は キッチンの隅でコーヒー豆を袋に詰めるふりをしながら覚悟を決めて―――― 厨房の奥に月美くんを呼び出した。 「月美くん……少し、お話……いいかな?」 手を止めて、月美くんはこちらを振り返る。 いつも通りの穏やかな瞳。だけど、今はその 優しさも苦しい。 厨房の中が、急に静かになった。窓の外の、虫すら鳴いてない気がする。 「ぁ、あのさ……お店、辞めてくれない、かな……」 僕の声は震えていた。喉が乾いて、唇がうまく 動いてない。 「僕は……もう、無理だよ……これ以上……ここに 君がいるの、つらいよ……」 月美くんは驚いた顔で立ち尽くしてる。 僕は、これ以上言葉で伝えるよりも見せた方が 早いと思った。 「ッ!涼風さん、何を……」 「……見せたくないよ、こんなのっ!! でも、でも……見てほしい。僕が……僕が、 どれだけ、汚れてるか」 大声で言って、それから、ぽつり、ぽつり声を 零しながら、僕はゆっくりと、シャツのボタンに手をかけた。 指先が震えてる。 胸元のボタンをひとつ、またひとつと外す。 開いたシャツの隙間から、肌が覗く。 胸元に、点々と――――小さな傷痕がいくつも浮かんでる。 爪で引っかかれたような細く浅い線。 丸い、火傷みたいに白く残った痕。 肌の白さに余計に目立って、どれももう薄くなってはいたけど、確かにそこにある。 そして僕は、左腕のシャツの袖をぐっと捲った。 小さな痕、幾つもの細い傷。 点々と散った赤茶けた斑点の名残。 まるで子どもが転んだ膝のように、治りきらなかった痛みのあとが腕に刻まれてる。 「……ねえ、月美くん」 声を出す前に、少しだけ僕は顔を伏せた。 月美くんに見られてるだけで、身体の奥まで透かされているみたいに恥ずかしくて、痛かった。 けど、これは―――― 「これが……僕なんだよ」 その言葉は、小さく掠れた。 でも、隠しようがなかった。 これが僕で、これが僕の過去のすべてだった。 「子供の頃、親の借金の肩代わりに身体を売られてさ……酷い男達につけられた傷痕、なんだ……」 月美くんの赤い瞳が揺れる。でも、視線は逸らさなかった。 「背中にも、脚にも、たくさんあるんだ。 ……こんな身体なのに、昨日みたいなことして……最低だよね、僕……」 口の中が乾いて、喉が詰まる。 「ごめんね……触れられる資格なんてないのに……それなのに……君に、触れてほしかった」 涙が一粒、頬を伝った。 「僕、君のことが……あそこで出会った日から、ずっと……ずっと大好きなんだ。でも、こんな 身体で、こんな過去で……恋なんて、しちゃいけなかったのに……」 うつむきながら嗚咽が漏れた。 言葉を重ねるたび、心が崩れていく。 誰にも話せなかった過去を、隠してきた傷を、 僕は今、一番知られたくなかった月美くんに さらけ出してる。 「だから、お願い……出ていって。君には、 もっとふさわしい人がすぐに現れて…… きっと……幸せに……」 すると、足音が一歩近づいた。 月美くんは、ゆっくりと僕の前に立って何も 言わず、両腕でふわりと僕を包み込む。 「ちょっ……何してんだ……出ていってって……僕は……」 「……嫌です」 小さな声。でも、すごく強い声だった。 「俺は、ここにいたいです。涼風さんの隣……」 「やめてよ……月美くん、やさしいから……僕が 可哀想と思って、そんな惨めなの僕は……」 「違います。俺は……涼風さんの、全部が好きです。」 「そんなこと、言って……!」 「涼風さんの昔になにがあっても……傷が、 たくさんあったって……俺の気持ちは……涼風さんと出会った日から、何一つ変わっていません。」 僕の心に走っていた傷の一つ一つ、少しずつほどけていくような気がした。 「っ!? ぅ……うそだよ……そ、それに僕なんかを恋人にしたって、良いことないよ?年上だし、性格だって最悪なんだよ!?」 「そんな風には、全然思えません。」 「僕、本当に君みたいなやさしい子と付き合ったら……甘える、たーくさん甘えるし、部屋だって散らかってるし、君が他の誰かと仲良くしてるの見たら機嫌悪くなるし、機嫌悪いと黙るし…… 毎朝甘いのないと不機嫌だし……わがままだし……」 「それは知ってます。」 「はぅッ!?」 「でも……そんな涼風さんの全部が素敵で、 可愛くて、大好きです!」 胸がきゅっと苦しくなった。 そんなに優しくされたら、もう逃げられないじゃないか…… 「……ほんとに、ほんとに……僕なんかで、 いいの……?」 「俺、涼風さんじゃなきゃ、嫌です……」 僕は、思わず両手で月美くんの頬を包んだ。 目の前のこの子が、こんなにも真剣な瞳で…… 僕だけを見てくれてる。 「君って……バカだね、ほんと……」 泣きながら微笑んだ僕に、月美くんは、そっと 近づいて、そして、唇がふれた。 涙が混じるキスなのに、甘くて、柔らかくて、 僕の心、満たされてく。 「涼風さん、俺、バカじゃないです…… こんな素敵な人を……好きになった……ン……」 月美くんの言葉に、僕の心の奥で、ずっと凍っていた何かが、ゆっくり溶けてく。 「月美くん……ありがとう……ン……」 僕がそう言ったら、月美くんは、ふわって微笑んで、また、そっとキスをしてくれた。 ふたりだけの世界。僕たちは何も言わず、ただ 静かに寄り添い、何度も、何度も愛を確かめ合った。

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