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第十三話

ネオンが滲む夜の繁華街。 賑やかな音楽が遠くから漏れ、笑い声と酒の匂いが混じる。だが、その喧騒の裏側には、誰もが見ようとしない澱が溜まっていた。 人通りはなく、街灯すらない細い路地。 その奥の重たい鉄扉が軋みながら開き、数人の 屈強な男たちに囲まれて、品のない笑い声を響かせながら一人の男が出てくる。 スーツに似合わぬ下品な脂ぎった額。 テレビでは「国民の未来のために」と爽やかに 笑っていたその男、現職の国会議員――――だが、 その実態は腐りきっていた。 もはやスーツの上からでも隠しきれない膨れた腹。節度のない酒と、年中夜遊びを繰り返した 結果のむくんだ顔面。それでもメディアの前では演技で清潔感を作り、子供を抱き上げ、年寄りの肩に手を置き、「若者には夢を、お年寄りには安心を」と嘘八百を並べていた。 だがその口は、つい数時間前まで違法薬物を嗜み、年齢確認もされないような少女の肌に しゃぶりついていた。 指には大手建設会社の社長から贈られた金の指輪。ポケットの中の札束には、何の仕事もせずに預けておけば数億単位で返ってくるという“未来の約束”が詰まっている。もちろんそれは政治献金の名を借りた、ただの賄賂だった。 「クソみてぇな国民どもがうるせえんだよ……。税金? こっちの胃薬代の方が高えわ」 足を引きずりながら、路地を歩きながらボヤく ように吐いた言葉は、録音されれば一発で政界から失脚するレベルの暴言だった。 だが男は怯えない。誰も自分には手を出せないと思っている。 大手メディアも一部警察も、もう既に“味方”のようなものだった。 「ぐへへッ、にしてもあの小娘、なかなかだったなぁ……さてぇ、次の店の予約はちゃんとしてんだろうなぁ……?」 白い歯をむき出しにして笑ったその時、ふと異変に気づく。周囲にいたはずのSPたち――屈強な 護衛たちの返事がない。 「……あ? おい?」 何も言わず、消えている。 「ざけんなよッッ!!誰をシカトしてん――――」 振り返ったその先に、“それ”は立っていた。 ぬめっとした汗が首筋を伝った。 「だ……」 真っ黒な影。 いや、正確には、少年の姿をした“刃”。 黒い装束に身を包み、光すら反射しない黒髪が、ふわりと宙を撫でる。街灯のない路地で ありながら、その瞳だけがかすかに、赤く光って見えた。 美しい顔だった。人形のようでも、天使のようでもあった。 だがその中身は、冷えた闇。絶対の静けさ。 一瞬、議員の目がすっと奪われる。 「っっ……な、なんだお前ッ!?俺の警護をどこへッ!!?」 直後、得体の知れない恐怖が全身を突き刺した。 「ぴっ……ま、待て、待て待て、待ってくださいぃぃ!!……いくらでしょうか!?……お金!! いくらで助けてくれま――――」 少年は答えなかった。 「あ、あがひッ……こ、こんなことして、 お前!!許されると思ってんのかッ!?俺はなぁ!警視総監にだって顔が利く……」 その言葉に、少年は目を伏せ、静かに言った。 「……五月蝿い。貴方は、この世界に不必要 です。」 その声は、炎のようでも、氷のようでもなかった。ただ、真実だけを告げるような、静かな音。 「んげ……ん……ん……」 次の瞬間、風が吹き抜け―― 議員の首は、路地に落ちた。 どこか遠くでサイレンのような音が鳴っていたが、少年は気に留めない。 未だ自分の首が落ちた事に気付かぬまま立っている死体を見ても、少年の表情は変わらなかった。 血飛沫一つも浴びず、ただ一歩、濡れた路地を 静かに歩く。暗い夜の奥へ、音もなく姿を消す。  人気のないテナントビルの屋上。室外機の影に腰を下ろすと、ジャケットの内ポケットから スマートフォンを取り出した。 指先で画面をスライドさせ、「完了」の報告を 送る。数秒のタイムラグののち、 「受理♡おっつー」の文字と共に、新たなファイルが送られてきた。 《お仕事♡:警護:対象資料》 少年は無感情な目でそれをタップする。 PDFが開かれ、そこには人物の顔写真と基本的なプロファイル。 淡々と眺めていた少年の指が、ふと止まった。 遠目から撮ったであろう写真に映っていたのは、控えめに微笑みながら接客する青年―――― 涼風 葵。 「……」 最初はなんの感情も浮かばなかった。 けれど、ページをスクロールしていくうちに、 脳の奥底で何かが軋む音がした。 懐かしさとも、疼きとも、違う。 もっと、言葉にしづらい感覚だった。 ページの下には「要注意:過去に接触あり」との記述。 その注釈を見た瞬間、少年の脳裏に、遠い過去の“夜”の映像がふっと浮かび上がる。 ――――汚れた部屋、傷つけられていた誰か。 ――――苦しげに呼吸をする血まみれの身体。 ――――か細くて温かい腕が、自分にしがみついた 感触。 少年は眉をひそめた。 その記憶は薄靄のようで、確信には至らない。 でも、心のどこかに引っかかっていた。その人の香りも、声も覚えていないのに、ただその “輪郭”だけが、なぜか馴染み深く感じた。 「この人……」 小さく、誰にも聞こえない声でそう呟いた。 だが、すぐに顔を上げ、首を横に振る。迷いを 断つように、冷静な瞳を取り戻す。 「……関係ない。任務は警護。」 そう呟いて立ち上がった少年の顔には、再び何の色も浮かんでいなかった。 ただ、ポケットにスマホをしまう指先が、一瞬だけ、わずかに強く震えていた。 ――――微かに、葵という名前の、その人の声が、 聞こえた気がした。それが何の記憶なのかは、 まだ、思い出せないままで。

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