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第十四話
三十二日目の朝。空は静かに晴れ、森の奥では木々のざわめきが風に揺れていた。
山道を登る一台の真っ赤なスポーツカー。
その車内にいる涼風 葵を、少年は遥か下方の斜面、視界には到底届かぬ距離から見つめていた。
だが、少年の瞳は人のものではない。
常人の十倍以上の視認能力を備えた少年の眼は、窓の隙間からの風に揺れる葵の長い黒髪や、
ドリンクホルダーに差し込まれた、好きな甘い缶ジュースさえ、くっきりと捉えている。
涼風 葵――――
彼が命を狙われているのには、確かに理由があった。
十年前、葵がまだ「商品」として扱われていた頃――――
その身体を金で買っていた客の一人が、地元で
名の知れた大企業の社長令息だった。親の地盤と財力に守られ、育ちも性格も腐りきったその男は、手に入らないものはないと信じ込み、金と
権力にものを言わせて欲望を貪っていた。
葵はその「欲望の一部」に過ぎなかった。
息子の悪行は、身内の中でも知られていた。特に父親――――政財界にもコネを持ち、裏の人間とも繋がる企業トップの男は、息子の暴走に長年手を焼いていた。
表向きは品行方正な経営者として名を馳せ、講演にも引っ張りだこだったが、裏では裏金の処理や口封じの工作など、数多の「汚れ仕事」にも関与していた。
父親は老いを感じていた。経営の一線から退き、息子に事業を継がせるには――――その前に、
「過去」を始末しなければならない。
息子が犯した悪事の数々。特に、金で買った少年少女の存在は、どんなに闇に葬っても、ひとつでも生き証人が残っていれば、すべてが瓦解する
可能性があった。
そのため男は、二ヶ月程前、自分のコネを使い
息子が関わった「生存者リスト」を入手し――――
暴力と口封じを専門とする“会社”に「証拠と証人の完全排除」を依頼したのだった。
葵の名前は、そのリストの最後のひとつに記載されていた。
以来、葵は知らぬ間に、命の値段を付けられた存在となっていた。
現在、父と息子はともに国外へ逃亡。企業の中枢は信頼の厚い側近に任せた上で、姿をくらましている。少年の所属する機関も足取りを追ってはいるが、用意周到な隠蔽と複雑なルートによって、追跡には時間を要していた。
つまり、少年の任務は明確だった。
――――目標の本丸に辿り着くまで、葵を殺させない。
たとえ依頼された“掃除屋”が何人こようと、少年が葵の気付く前に、すべてを無力化する。
この三十二日間だけで、葵を狙った男たちは六名。
いずれも確実に、痕跡を残さず“処理”した。
葵本人はそれらを知ることなく、今日も静かな
朝を迎えている。
少年は、決して心を揺らさない。
それが彼の矜持であり、設計でもあった。
だが――葵は、違った。
少年はこの仕事の初日、誰にも気付かれず葵の
アパートと、葵の営む「日向」の中に侵入し、
極小の監視カメラを一つずつ取り付けた。
誰かが侵入すれば、すぐに対応できる。
葵が危険に晒される前に、全てを排除できる。
そのためだけの措置――――
しかし、気づけばそのレンズが映す映像に、少年は自然と見入っていた。
葵が帰宅し冷蔵庫を開け、甘いものを取り出して食べる様子。
床に座り、DVDを入れ替えて、テレビの前に寝転がる。
画面に映るアニメや映画の中で、キャラクターたちが笑ったり泣いたりするのを、葵はくすっと笑って、まるで昔の記憶をなぞるように見つめていた。
葵が何を見て、どんな音楽に心を弾ませ、どんな話に涙を流すのか。
ただそれを知れることが、なぜか嬉しくて、少年は無意識のうちに葵と同じ作品を、自分も画面の向こうで追いかけていた。
少年は、静かに、自分でも気づかぬうちに、心を温められ――――
そしてある夜。
いつものようにカメラを通して、リビングの様子を確認していた少年の目に、ふと、意図しなかったものが映った。
葵が生まれたままの姿で、部屋の中を歩いていた。
濡れた長い黒髪が肩にかかり、うっすら汗ばんだ肌が照明に照らされてやわらかく光っていた。
腕にも、胸にも、脚にも、いくつかの小さな傷痕が残っていた。
決して大きくはない、だが、明らかに癒えきれない過去の痕跡。
それなのに――――
その痕跡を見て、思考が一瞬だけ停止する。
怒りや哀しみではなく、ただ、美しいと思った。
少年は息をするのも忘れ、画面から目を逸らせなかった。見てはいけないと思いながらも、目が
離れなかった。
次の瞬間、自分の胸の奥に生まれた感情が何だったかを自覚した少年は――――
ばちん、と音を立てて、自分の頬を引っ叩いた。
「……最低だ、俺は……」
唇を噛みしめる。
葵は、自分が守るべき存在だ。
傷つけられてきた過去を抱えて、今ようやく穏やかに生きている人を、自分がそんな目で見てしまった。
それが少年には、許せなかった。
その後もずっと胸が痛んだ。
ただの仕事。
そう言い聞かせていたはずの心が、葵の一つ一つの仕草に揺れてしまいそうになる。
少年の胸の奥底で、なにかがひっそりと芽生えていた。
それが何なのか、彼自身も理解していなかった。
葵を「守らなければならない存在」としてではなく、「目を離したくない存在」だと感じ始めている自分に――――。
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