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第十六話
木々の影に身を潜め、少年はじっと視線を向けていた。視線の先の葵は――――
両手に、満水のポリタンクを一つずつ抱えて歩いていた。山の空気は湿気を帯びているのに、どこかひんやりとしている。だが、葵の額からは汗が滲んでいた。
少年の視界の中で、華奢なその身体が石畳の道を一歩ずつ踏みしめている。少し前傾した姿勢。
タンクの重みで肩が沈み、歩幅もぎこちない。
足元の不安定な石が、時折ぐらりと身体のバランスを奪うのを、何とか耐えて進んでいた。
……重すぎる……
遠くからでも、葵の指の力が限界に近いことが読み取れた。腕は細く、肩も小さい。それでも唇を引き結び、ポリタンクを放そうとしない。
やがて、石階段の前。葵がそこで、ふと立ち止まる。
……ッ
階段の縁に足をかけた瞬間、膝がわずかに震えた。重心が崩れ、右足が一段目の手前でつまずいたように見えた。
――――危ないッ!!
瞬時に、少年の足が地を蹴る。
ゆっくりと、時間が歪む。
葵の身体が重力に引き寄せられ、前へ――――
少年の身体は、本能より速く動いていた。
地面を蹴る音は、森に飲み込まれて消えた。
風を裂き、枝葉を潜り、少年の足は影のように
斜面を駆けた。
次の瞬間、葵の身体は少年の腕の中にあった。
驚いた瞳。
乱れた黒髪。
薄く汗をにじませた首筋。
息づかいさえ、触れる距離。
少年の胸に広がったのは――焦燥、ではなかった。
安堵、でもなかった。
これは何だ、と、思った。
胸が、熱い。
呼吸が、浅くなる。
抱いた身体を、手放したくないと思った。
「大丈夫ですか? どこか痛みはあります?」
自分の声がどこか揺れていることに、少年自身が戸惑った。
任務対象に対する言葉のはずだったのに――――
葵の怪我の有無を確認するだけの問いのはずだったのに。
なんで、こんなに……
近い距離にいるだけで、喉が渇くように息が詰まる。
唇が動くたび、その形が目に焼きついて、視線を逸らせない。
「あの……?」
「はぅ!? あ、え、っと、あの、にゃ、ないです、おかげさまで、あ……ありがとう、ございます……」
そう答える葵の声は、震えていた。
その声の響きさえ、どこか胸に沁みてくる。
「っ……立てますか?」
「は……ぅ、うん……なんとか」
葵をそっと地面に下ろす。少年は何段か下に落下したタンクを見下ろした。
「よかった……水、重そうなので……よかったら、車までお運びします。」
「え……ぁ……でも、そこまでは……」
……兎に角、こんな危険な事、絶対にさせられない……
「遠慮しないでください、ね?」
「はぅ……」
葵が戸惑いながらも微笑む。
それを見た瞬間、少年の胸に新たな震えが生まれた。
この人を、守ってあげなくては……
守る、という言葉の奥にある感情に、少年はまだ明確な名前を与えることができなかった。
だが、ただ一つだけ……
葵を遠くから見ていた時間よりも、今の方が
ずっと……
息はしづらい、けど、悪くない――――
その感覚こそが、恋と呼ばれるものなのだと、
少年が知るのはもう少し先のこと。
少年は両の手でタンクをそれぞれ軽々と持ち、
舗装された駐車場へ向かって静かに石階段を降り出した。
その背中を、葵が少しだけ不思議そうな顔で見つめていた。
少年は、葵に見られていることさえ、悪くなかった。
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