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第十七話

 タンクを車のトランクに積み込んだその瞬間、 少年は我に返った。 視界の端に揺れる青みがかった黒髪。汗を額に にじませて、笑おうとしている葵の姿が、どうしようもなく胸に残っていた。 ――――まずい、まずい、これは……まずい、冷静に なれ。この訳のわからない気持ちに引きずら れるな。 葵に触れた体温が、まだ掌に残っている気がした。石階段を駆け上がり、抱き留めてしまった瞬間から、自分の中で何かが狂い始めているのは分かっていた。 さっきのあれは任務の一環ではなかった。 あの時、咄嗟に動いたのは―――― 命令ではなく、己の意志だった。 葵を間近で見てしまったことがいけなかった。 遠くから観察していた時には、“美しい対象”に すぎなかった。 けれど、あの瞳を真正面から見た瞬間、自分の心の輪郭が曖昧になった気がした。 「本当に、ありがと……」 任務に支障が出る。 今、ここで距離を取らねばならない。 「いえ、それではお気をつけて……」 そう判断した少年は、踵を返そうとした。 「ぁ、あのさ……っ!よ、よかったら、うち、喫茶店やってて……」 不意に葵の声が背中から届く。 「ぁ、あんまりたいしたものは出せないけど、朝ごはんとか、ごちそうさせてほしい、なって……その、お礼に……」 その声音は緊張を滲ませながらも、どこか嬉しそうで―――― 振り向いてはいけないと分かっていたのに、 少年の足が止まっていた。 喉の奥がひりついた。 拒絶すべきだった。ここで断ればいい。 それが“正しい”。 だが、葵はまっすぐこちらを見ていた。 傷痕を隠すように儚く、それでも今は精一杯の勇気を込めて、誘ってきてくれていた。 「嬉しいです。ご迷惑じゃないなら……ぜひ」 少年の口が、先に答えていた。 言い終えてから、少年は目を伏せた。 唇を強く噛み、内心で舌打ちを飲み込んだ。 ――――是非ってなに!?何故、俺は断っていない!?これは予定外だ。任務とは無関係な行動だ。必要のない接触を自ら招いてどうする!? 関わるな。守ることだけを考えろ、考えたい…… それなのに、どうして―――― 葵の小さな笑顔が、頭から離れなかった。 冷静であろうとするたびに、心の奥で小さく波紋が広がっていく。 少年の心は、確実に葵に向かって傾いている。

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