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第十八話
カウンターの木目が、やけに優しく見えた。
愁はそこに腰を下ろした瞬間、深く息を吸って、それから心の奥で静かに呟いた。
――――どうして、こうなったんだ……
葵を助け、水を運び、車まで届け、任務に戻る。それだけのはずだった。だが今、少年は葵の
手料理を待っている。椅子に腰を落ち着けて。
葵は、厨房で忙しそうに動いていた。
白いシャツの袖を少し捲って、低い位置で玉子を割り、ふわふわの厚焼き玉子を丁寧に焼いていく。
パンを手に取るその仕草も、ナイフで耳を落とす所作も、驚くほど静かで、整っていて。
少年は、眩しいと思ってしまった。
「……どうぞ、召し上がって」
カウンターの向こうで、葵が微笑んで見守る中、少年は目の前に置かれた皿に視線を落とした。
「わぁ、いただきます」
こんなもの、口にするのは初めてだった。
栄養補給でもない。ただ“食べてほしい”と誰かに差し出された食事。
それがどういうものか、少年には、まだよく分からない。
だが、一口かじった瞬間、その味が染み込むように心を満たしていく。
柔らかいパンと、ふわっとした玉子の甘さ。
それがどこか懐かしくて――――いや、“懐かしい”と呼べるほど、何か思い出があるわけではないのに。
気づけば、少年の頬が熱くなっていた。
喉にするりと滑り落ちるその一片に、身体の奥の何かがほどけていく。
「あの……おいしい……凄く、美味しいです」
思わず出た言葉に、葵がぱっと表情を明るくした。
その笑顔は、どうしようもなく綺麗で――――
心が、痛くなってきた。
……冷静で、いなきゃいけないのに……
けれど少年の心は、そんな理屈にまったく従ってくれない。
次に手渡されたグラス。アイスコーヒー。
少年は一瞬だけ、その黒い液体に目を凝らした。
これも、美味しいのだろうか……?
苦いという事は知ってはいるが、口にした事の
無い飲料。未知の成分を口にする際は本来はもう
少し調べてから口にする。
けれど今は、それをくれた葵を疑うことすらためらわれた……だから、一口だけ。そう自分に
言い訳して、グラスに口をつけた。
にっがい…………。
それは予想以上で、思わず動きが止まる。
喉の奥に、舌の奥に、張り付くような苦さ。
「ん、どうかした?」
その心配そうな声に、反射的に「大丈夫です」と答えようとしたが、間に合わなかった。
「ひょっとして苦いの苦手?」
「……あの、すこし……」
素直に告げた言葉に、葵がくすっと笑った。
その笑い方が、なんだか――――嬉しかった。
「ふふっ♪ミルクとお砂糖、たっぷり入れちゃおっか?」
スプーンがカランとグラスに触れる音が、店内の空気を和らげた。
自分のために味を整えてくれる、その行為が、
こんなにも嬉しいなんて――――
“日向”というこの場所。
陽だまりのような空気と、葵という人の存在が、
少年の中で少しずつ、「心地よい」と形を成し始めていた。
葵が差し出した甘いコーヒーを、今度はちゃんと飲んだ。
こんなに美味しくなるなんて……珈琲って……
不思議……
優しい甘さが喉を通っていく。はじめての
コーヒーを“美味しい”と感じた。
そして食後、葵の問いかけは不意にだった。
「君って、今いくつなの?」
なんとなく年齢不詳な雰囲気――――それは、少年
自身がよく言われることだった。
あどけなさを少しだけ残した顔立ち。けれど整いすぎたその輪郭は、少年にも大人にも分類されず、ただどこか現実から遊離して見える。
少年は少しだけ目を見開いた。だが動揺は見せまいと、自然な笑みで答える。
「十八です。……今年の春に、高校を卒業しました」
……嘘だけど。
けれど、微笑む葵に向けるその言葉は、罪悪感に鈍く胸を叩いた。
「えっ……十八歳……」
葵の声が少しだけ驚いたように揺れる。
予想より若いと思ったのだろう。だが少年には、なぜかその反応が嬉しくて、そして苦しかった。
この声を、騙している――――
この温かな瞳を、欺いている――――
本当の自分は、“高校生”などではない――――
苦しいけれど、葵は問いを重ねてくる。
「じゃあ、今は大学……?」
少年は首を小さく振った。
「いえ、進学も就職もしてなくて……ちょっと、いろいろと迷ってしまって。」
葵は、頷いてくれた。何も疑わず、受け止めてくれるその様子が――――やはり少年には痛く、
眩しかった。
それからは、他愛のない会話が続く。
天候、この立地に関する話。葵が見た映画の話。
たった数十分のやりとりなのに、まるで何年も
昔から知っている相手のように感じられた。
葵の声が、穏やかに店の話へと移る。
「屋根、ちょっと雨漏りしてるんだよね……まあ、年数考えたら当然なんだけど……」
少年は言葉を挟んだ。
「直さないと、大変じゃないですか?」
嘘にまみれた自分から自然に出たその一言に、
口に出した後、少年自身驚き心の奥が、わずかに軋んだ。
「うん。でも、大工さんに頼むほどの余裕は……。」
そう言って葵は、少し照れくさそうに笑う。
「それにお掃除も広いから大変だし、手入れもいろいろ一人でやるとさすがにね。それに夜になると、ちょっと怖いというか……」
その声に、少年は無言で耳を傾けた。
“怖い”という言葉は、葵の過去をわずかに匂わせる。
だからこそ、少年の中に渦巻く感情はただの
“憐れみ”でも“同情”でもなかった。
守らなければ、と強く、強く思った。
この手で、目の前の人間の暮らしを壊そうとする何者かから、必ず遠ざけなければ――――と。
だがそれは、任務とは別の衝動だった。
“誰かを守りたい”という想いが、自分の意志と
して芽生えていることに、少年はまだ気づいていなかった。
ただ胸の奥で、知らない鼓動が鳴り始めていることだけを、確かに感じ。
「……好きです」
ぽつりと、言葉が漏れた。
っ……なにを言っているんだ、俺は……
自分でも、それがどこから出たのかわからなかった。
思考が追いつく前に、反射で続けた。
「このお店の雰囲気。すごく、好きです。……それに、もし一人で全部やるの大変だったら、よければ……俺に、手伝わせてもらえませんか?」
葵が驚き、それから微笑む。その穏やかさに
また、胸がふわりと波打った。
……こんな感情、俺は知らない……けれど、これは嘘じゃない。
少年は本当に、ここが好きだと思った。
“日向”というこの場所で、初めて人としての感情が――――心の奥底から、芽を出した気がした。
葵と過ごすこの数十分が、少年の生きてきた中でいちばん優しい時間だった。
葵がぽつりと「でも……お客さんが少なくて、お給料なんて……」と口にしたとき、少年はその声に少し胸を締め付けられた。
そんなこと、関係ない――――と、即座に思った。
それでも、少年の中の
“月美 愁”
という仮の名前と偽りの設定は、ここで本当の
気持ちをすべてさらけ出すことを許さない。
葵の言葉に、愁は微かに首を横に振った。
「いえ……俺、実家に住んでますし。今は生活に困ってないんです。だから……無給でも全然、大丈夫です」
そう言いながら、胸の奥にじわりと広がる苦さを、愁は見ないふりをした。 嘘をつくたびに、自分が少しずつ剥がれていくような感覚。
だが、葵の表情がぱっと明るくなると、その痛みは一瞬でどこかへ消えた。
「ふふっ、若いんだね……」
葵がそう言って少し照れたように笑う。 愁は、それを見てまた胸の奥が熱くなるのを感じた。
だから、ほんの少しでも手を貸せるなら。 ほんの少しでも、この場所の空気を守れるなら。
それが“任務”であることを盾に、愁は自分を納得させようとした。
「……ありがとう、そう言ってくれるの、すごく嬉しい……」
葵の目元が少し潤んでいて、その声には確かに震えがあった。
愁の心が、また少しだけ揺らいだ。
「それじゃ……」
「お給料無しって……そこまで甘えるわけにはいかないから、大した金額じゃないと思うけど、ちゃんと出せるだけは出すからね……」
葵の言葉に、愁は少しだけ目を見開いた。
お金が欲しいわけじゃなかった。
でも自分から提案したとはいえ葵に
“必要としてもらえた”ことが、心に静かに染みていく。
「……ほんと、ですか?やった……!」
両手をぎゅっと握って小さく跳ねるように喜ぶ愁の姿は、まるで子どものようで、けれどその喜びは嘘偽りのないものだった。
「頑張ります、何でもします。お店のことも、お掃除も、仕込みも。えっと……迷惑かけないように!」
愁の声は真剣で、ほんの少しだけ弾んだでいる。
その瞳に浮かぶまっすぐな光は、迷いも嘘もなかった。
葵が、どうしようもなく眩しい笑みをこぼす。
「ふふっ、よろし……ぁ!」
ふと言いかけた葵は何かに気づいたように、また小さく笑った。
「……そういえば、僕達、まだお互いに名前……知らないね。」
愁も、ようやくそこで思い至る。
「ぁ……はは、そういえば、そうですね……」
差し出された手を、愁はそっと取った。 それだけのことなのに、心臓がまた不規則なリズムを打つ。
その手は、ほんのりとあたたかかった。
「あらためまして、俺、月美 愁です。……よろしくお願いします。えっと……」
「ぁ、す、涼風、涼風 葵です。よろしくね……えと……月美君。」
「はい、よろしくお願いします……涼風さん。」
手と手が重なった瞬間、愁は思った。
――――こんな……優しい手が、存在するなんて……
任務の途中のイレギュラー。それだけのはずだったのに、なぜかもう、離れがたくなっていた。
“ここで働けたら嬉しい”と、言った自分の本音。
それが、任務に支障をきたす危うさであることも、愁はちゃんとわかっていた。
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