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第十九話

 「日向」を後にして、愁は葵のシルビアS15の助手席に乗せられ、駅まで送ってもらった。 助手席から見た車窓の流れが、やけに柔らかく 感じたのは、気のせいだっただろうか。 駅前で別れを告げ、シルビアの姿が見えなくなるまで見送った。 愁はすぐに身を翻した。 葵のアパートを視認出来る偽装住所へ走って戻る。脚は速いが、胸の内は静かではなかった。  息も整えぬまま、愁はスマホを手に取り、 上司への報告、それは今や最優先のタスクだった。 「日向」で働くことになった経緯。 葵の傍にいたい――――そんな感情は、絶対に書けなかった。 言い訳を練る指先が僅かに震える。 普段なら、必要最低限の報告だけで済む。 だが今回だけは、違った。 何度も言葉を推敲しては消し、ようやく“理屈の通る形”に仕上げた文章を送信する。 【対象との接触を深め、行動範囲と心理的傾向を観察する必要あり。日向での勤務は、自然な接近および保護の一環。】 ほんの少しだけ混ぜた、感情と願望。 指の震えが止まらない。 処分されるかもしれない――――そう思った瞬間、 怖い、という感情が胸を突いた。 駅での別れ際、柔らかな声で 「今日はありがと……ぁ、また、あしたね」 と慣れない感じで言いながら、微笑んでくれた葵の姿を思い出すだけで、喉が詰まりそうになる。 命なんてどうでもよかったはずなのに。 今は、違う。 葵の隣にいたい。それだけで、生きたいと願ってしまう。 電波は安定している。すぐに返信があるはずだった。だが、スマホの画面は静かなまま、既読の 文字すらつかない。 この沈黙が、まるで心を見透かされているようで愁には酷く長く感じられた。 もしかしたら――やはり自分は、排除される側に回るのだろうか。 不安がじわじわと胸を満たしていく。  そして、突然スマホが震えた。着信―――― テキストではない。音声通話。 今まで“焦る”という感情を知らなかった愁の身体が、着信を受けたその瞬間ぴたりと固まった。 文字での返信ではなく、まさかの通話。 慌ててスマホを耳に当てると、開口一番、艶の ある笑い声が響いた。 『うふふふふふふふふふふふふふ……♪ ええやん、あんた……めっちゃ可愛いやないの』 ――――背筋が、ぞわりと粟立つ。 その声音だけで、愁の体温は一気に上がる。 視線の先も曇るような錯覚さえする。 「……お、お疲れさまです……」 返す声がかすれてしまったのを、愁自身が悔しく思う。 『で、どないしたん? 日向で働くって、ほんまに驚いたわぁ。』 「いえ……それは、任務の一環で接触のために自然な位置を確保するのが合理的で……」 早口になる言葉を、必死で整える。 電話の向こう、上司は笑っている。あの、美しく冷たい刃のような人が。 『うふふ……♪うちはな、あんたのこと、よう 知ってる。嘘つこうとしてる時の、ちょっとだけ高なる声も、わかってんねん』 「っ……」 図星を突かれて、愁は言葉を詰まらせた。 無意識に背筋を伸ばし、まるで対面しているかのように姿勢を正す。 『ふふ……ええよ、気にせんで。あんたが自分の判断で動いてんやろ? ほな、それでええ。』 「ッ……ありがとうございます」 自然と口から出ていたのは、感謝の言葉。 命令を受けるのではなく、“信頼されている”と 感じることに、愁は戸惑っていた。 『ばっくあっぷは、ウチらがやる。あんたは、 思た通りに動き。そやけど――――危うぅなったら、ちゃんと報告してや?』 「はい、……承知しました。」 頬の熱を自覚しながらも、声は真剣だった。 『んふふふふ……♪まぁ……どうせそのうちまた、ウチに相談か、したなってくるやろうし?  んふ、うち、待ってるさかい♪』 「そんなこと……ない、とは思いますが……」 否定しきれずに俯く。けれど、本音ではすでに その予感に怯えていた。 葵の笑顔、声、香り、距離。 どれもが少しずつ心を侵食してくる。 『んふふ……まぁええ、あ、それとなぁ……夜に ひとつ、あんたに必要なもん支給しとくさかい。届いたら……楽しみにしててな?』 「っ……はい……」 低く響いたその声に、伸ばした背筋がぞくりと 震える。電話越しの言葉一つで、こうも動揺してしまう自分が悔しい。 『ほな……』 通話が切れた後、愁はそっとスマホを置いた。 心臓が、ばくばくと音を立てていた。 それでも 「……ありがとうございます、九条さん……」 こうして許してもらえた――――それが、何よりの 救いだった。  その夜――――コンコンと扉をノックする音が聞こえ、扉を開けると誰もおらず、扉の前に、九条の文字で『ふぁいとぉ♡』と書かれた段ボールが届いていた。 中には、葵と同じデザインの仕事着が丁寧に畳まれて入っていた。 サイズは完璧。替えも含めて三着。 触れた布地は新品の香りがして、どこか眩しく見えた。 ――――涼風さんと、同じ…… それを見た瞬間、愁の胸にぽっと灯がともる。 気づけば、制服一式を抱えたまま洗面台へと向かっていた。 ぎこちない手つきで袖を通し、ネクタイに手こずりながら、なんとか一通りの着付けを終える。 「……これで……大丈夫、かな」 鏡の前に立ち、前髪を軽く直してみる。 それから、ふと、自分の表情を確認するように、鏡越しに見つめる。 「……いらっしゃいませ……」 静かに言ってみる。表情が硬い。 もう一度、今度は少し口角を上げて。 「いらっしゃいませ……」 鏡の中の自分が、わずかに微笑んだ。 ほんの一瞬、その表情に吹き出しそうになった顔を両手で覆って、崩れ落ちそうになった。 ちがう……表情を取り繕うなんて慣れてる…… 表情の練習とか、いらないし……っ 任務第一だと何度も心で繰り返しても、抑えられない感情がある。 葵の隣に立てること、それがただ嬉しくて。 仕事着を身につけた身体が、自然と軽くなる。 すっかり赤く染まった頬に当てていた両手を、 愁はゆっくりと洗面台の縁へおろした。 鏡に映るのは、知らない顔――けれど、どこか 嬉しそうな自分だった。 頬を火照らせたまま、愁はそっと目を細めて、 静かに笑った。 まるで、これから始まる“何か”に、期待してしまっているような。 その微笑みは、彼自身も気づかぬほど、やわらかく優しかった。

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