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第二十話

 初出勤。早朝、愁は駅の横にあるコンビニの 前で、待ち合わせ時間より十五分も早く立って いた。 静かな町。朝の少し冷たい空気の中、ベストに 指先を添えて、少しだけ深呼吸する。 白いYシャツ、黒いスラックス、細い黒のネクタイ。昨夜、部屋に届いたばかりの一式だった。 ――慣れない、けど……嫌じゃない。 鏡の前で何度も結び直したネクタイの感触が、 今も胸元に落ち着かず残っていた。 この駅は、愁が表向き登録している偽装住所に 近く、葵の通勤ルートにも自然に重なる 場所だった。 だから――葵が提案してくれたのだ。 「それだったら、駅で待ち合わせて一緒に乗せてってあげよっか?」 そして、その時はやって来た。 静かな朝に、ふいに聞こえてくる低くて野太い エンジン音。まだ見えなくても分かるスポーツ カーらしい音。真紅のボディが近づいてくる。 やがて、コンビニ前にS15シルビアが滑り込む ように停まった。 運転席のドアが開く。葵が笑顔で降り立った。 「おはよう、月美くん……」 そして、愁の制服姿を見て――ぱっと顔を明るくする。 「わぁ……」 葵にまじまじと見られ、愁は思わず足元を見て 、自分でも驚くような動作を取っていた。 少しだけ照れながら、ゆっくりとその場で半回転。ふわりと髪を揺らし 「……お揃いにしてみたのですが、似合いますか?」 笑顔を葵に向ける。自分でも、どうしてこんな ことを言ってしまうのか愁には分からなかった。 だが、葵は嬉しそうに目を細めて笑った。 「うん、とっても似合ってる。すごく似合ってるよ、月美くん♪」 その笑顔を見た瞬間―― 愁の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がる。 初めて見せた“普通の自分”が、こんなにも喜ばれるなんて。昨夜、仕事着一式を送ってくれた九条の顔が脳裏に浮かんだ。 ――ありがとう…… 愁は、小さく息を吐いて微笑んだ。 そうして、葵の乗り込んだシルビアの助手席へ 愁も乗り込む。  初日から、葵は接客の基本を丁寧に教えてくれた。 「お水はグラスの左から。メニューは開いて渡してあげると親切かも……あ、あと、お客様が話しかけてきた時は目線を合わせて……」 小さなこと一つひとつに気を配る葵は、決して 効率的とは言えなかったが――そこに気持ちがあった。 愁はそのすべてを見逃さなかった。 ドアの開閉音にさっと反応する仕草、砂糖壺の 角度を整える指先、客が帰った後のテーブルに 残ったコースターを静かに重ねる姿。 葵はいつも、「日向」と人を想っていた。 教わるうちに、愁はふと気づく。 葵の声が耳に残る。近づけば、肌の温度が伝わる。少し困った顔も、照れた顔も、全部―― 目に焼きついて離れなかった。 感情の重心が、静かに、だが確実に葵へ傾いていく。

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