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第二十一話
日向で働き始めて、三日目の夜だった。
静かな帰路、偽装された住所に戻った愁の足取りは軽く、胸の奥にまだ温もりが残っていた。
今日も、葵の隣で過ごした。
一緒にお客様を迎え、コーヒーを淹れ、玉子の焼けるバターの香りに包まれながら店を回して。
葵が丁寧に教えてくれることは、愁の頭と身体にすっと染み込んだ。
それが当然のようにできる自分を、葵が
「すごいね」と笑って褒めてくれる。
ただそれだけのことなのに、心が跳ねるほど嬉しくて、もう少しだけ傍にいたいと願ってしまう。
朝――駅前のコンビニで待ち合わせ、真っ赤なシルビアS15が遠くからエンジン音を響かせて現れるだけで、胸が高鳴る。
運転席のドアが開いて、「おはよう」と微笑む
葵の顔を見るたび、嬉しくてたまらなくなる。
そして夕暮れ。仕事を終えた帰り道、相変わらずスポーツカーらしい加速と軽やかなハンドルさばきで、あっという間に駅に着いてしまう。
――もう少し、ゆっくり走ってくれたら。
もう少し、一緒にいられたら。
「じゃあ、また明日」と言われて手を振られるだけで、シルビアが視界から消えるだけで、ひどく寂しい気持ちが胸の真ん中を締めつけた。
この気持ちは、いったい何だろう。
愁は、その名も知らぬ感情に胸を焼かれるような思いで、ふと思い出した――
『んふふふふ……♪まぁ……どうせそのうちまた、ウチに相談か、したなってくるやろうし?
んふ、うち、待ってるさかい♪』
九条の、あの声だ。
夜、静かな部屋。スマホを耳に当てる指が少し震えていた。
コール音の後に響いたのは、艶やかで、男とも女ともつかぬ低くしなやかな声。
『あら……ほんまにかけてきたやん。やっぱりやわぁ、うちの読みは当たるんやで?』
「……すみません。少し……聞きたいことがあって……」
『ふふ、ええよ。なんでも言うてごらん、可愛い弟くん?』
愁は、今日までのことを――
葵の笑顔、言葉、仕草、そして自分の感情を、一つ一つ言葉にして伝えた。
すると、九条はしばらく黙っていたが、ふっと
微笑むような吐息を漏らした。
『……ようやく、やなぁ』
「え……?」
『前から、心配しとったんやで? あんた、自分じゃ気づいとらんかったやろけど……あまりに無機質やった。まるで、命令だけで動く機械みたいやった』
九条の言葉に、愁は自然と息を詰めた。
『仕事は正確で、冷静で、非情で、完璧。けどな、笑わんし、喋らんし……誰とも心を交わさん。そんなあんたがな、今、電話してきて、自分の気持ちを伝えてくれる。それが、うちは嬉しくてしゃあないんよ』
「……京之介さん」
『ウチが“あんたに生きててほしい”思たんは、
そういうとこや。殺すことしか知らん子になってほしくなかった。……けど今のあんたは、誰かを想うてる。それだけで、ほんまにええ』
愁の胸が、じんわりと熱くなる。
それが嬉しさなのか、安堵なのか、自分でもわからなかった。
『ぁ、ちなみにそれ、恋やで。そばにいたい、
離れたくない、笑ってほしい。全部、恋の症状やわ』
「……俺が……恋……?」
『せや。ほんでな、あんたが育ったあそこと違うて、ウチらはそういうこと縛ることはせぇへん。相手が誰であれ、あんたの気持ちに正直に生きてええ。せやろ?』
「……っ……」
『なぁ、愁。伝えな、伝わらへんよ? 考えてるだけやと、届かん。……“好き”って気持ちはな、声にせんと、相手は気づいてくれへんのや』
通話越しに聞こえるその声が、優しくて、どこまでも真っ直ぐだった。
『それに……ウチらの仕事なんか、いつ何が起きるかわからへんやろ? ほんまに好きやったら、想いは伝えとかんと、な?』
「……はい……」
愁は、頬を染めながらうつむいた。耳まで赤くなっているのがわかった。
『んふふふっ……ほんま、可愛らしなったなぁ、愁。今、顔真っ赤にやろ?昔は氷の子やったのに』
「……からかわないでください……」
『からかってへんわ。ウチは、嬉しいんや。あんたが、ちゃんと“生きよう”としてるのが、な』
そう言われたとき、愁の目に、不意に熱が滲んだ。
誰かに「生きてほしい」と思われたのは、初めてだったかもしれない。
『そうそう……今日の夜、ちょっとしたもん届けるから、楽しみにしといてなぁ?』
「え、ま、待ってください、また何を……っ」
『んふふ、秘密や。ほな、ええ夢見るんやで、愁。ばいばーい♡』
ぷつん――
通話が切れても、愁の頬の熱はしばらく冷めなかった。
夜。扉の前に届けられた包みを開くと、中には
年季の入った文庫本――『恋愛のいろは』と書かれた一冊が入っていた。
手に取ってページをめくる。
「目が合うだけで嬉しいなら、それはもう恋です」
そんな言葉に、愁はふっと笑った。
まるで、いまの自分の心を見透かしたような言葉がいくつも、そこにあった。
ページを捲る速度が自然と上がっていく。
寝るのも忘れ、目を皿にして読み進めた愁の唇が、ほころんだ。
この胸の痛みの名前を、ようやく知った――そんな夜だった。
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