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第二十四話

 昼食は、午前中の買い出しを終えて、ふらりと入った小さなハンバーガーショップだった。 街の片隅にひっそりと佇む店で、窓際の席にふたり並んで座ると、やわらかな夏の陽が差し込んでいた。 その光のなかで、葵の睫毛が長い影を落とし、 テーブルの上に繊細な輪郭を描いている。 愁は、手の中の包み紙を静かに開きながら、ちらりとその顔を見つめた。 透明感のある肌。風に揺れる黒髪。 何気ない仕草のひとつひとつが、どうしてこんなにも胸を締めつけるのか―― ほんの数日前。 この気持ちを“恋”だと教えられてから、心の深い場所が少しずつ変わってきていた。 けれど――それでも。 護衛である以上、気を緩めることはできない。 それは愁の中で、最も深く刻まれている規律だった。 たとえば今も。 隣の席の女子高生たちの小声。 窓の外を通るスーツ姿の男の動線。 背後のカウンターに立つ店員の視線。 すべてを、意識の端で把握している。 それでも、ポテトを口に運んでいた葵の言葉には不意を突かれた。 「……さっきから、モテモテだったね」 穏やかな声だった。 何気ない会話のようでいて、少しだけ探るような色が混じっているようにも感じた。 「そうですか? ただ、声をかけられただけですよ」 愁は苦笑を浮かべ、そう答える。 けれど内心では、戸惑いが消えていなかった。 確かに、今日は、普段よりも多くの視線を感じた。 けれど――その誰よりも、たったひとりの視線だけを追ってしまう。 それが、隣にいる人のものだと、もうとっくに 分かっていた。 「道行くたび、声かけられてたじゃん。 ……モデルに間違えられたりとか」 葵の言葉に、ふと手を止める。 包みかけたハンバーガーを見つめるふりをして、静かに息を吐いた。 「……慣れてないんです、ああいうの」 それは本心だった。 目立つことは本来避けるべきであり、注目を浴びるのは苦手だ。 でも今は、その理由が少し違う。 自分を見てほしい人は、ただ一人しかいない。 他の誰の目にも、応えるつもりはなかった。 「でも、きっと月美君、女の子にすごくモテるよ。顔も綺麗だし、背も高いし、雰囲気も柔らかいし……」 穏やかで、少し笑っているような声。 それなのに、愁の胸には妙な痛みが走った。 “誰かが惚れるよ”―― 葵のそんな言葉が、まるで他人ごとのようで。 「……涼風さん」 声が自然に出た。 意識していたわけではない。 けれど、その名前を口にした瞬間、愁の心の奥がわずかに震えた。 「俺、そんな、誰でもいいわけじゃないです」 言葉に込めたのは、ただひとつの気持ち。 誰の好意でもなく、葵の視線だけを求めている。 そして、自分が注ぐ想いもまた、その人だけのものだと伝えたかった。 葵は少しだけ目を見開き、それから、ふっと微笑んだ。 「……ふうん。じゃあ、どんな人が……好きなの?」 軽く笑いながらの問いかけ。 けれどその奥には、ほんの少し、揺れる気配があった。 探るような、試すような、そして――もしかすると、期待するような。 それは……貴方です……。 そう、愁は答えなかった。 ただ、少し赤く染まった耳と、控えめに向けた視線だけが、その胸の内を静かに語っていた。  夕方、店の鍵がカチリと音を立てて閉じられる。薄く傾いた陽が、店先にふたりの影を寄り添わせた。 隣に立つ葵の頬が、ほんのりと赤く染まっていた。暑さのせいか、それとも――それ以外のなにかか。 愁には、分からない。 午後の買い出しの途中、葵の声がふと遠くなった瞬間があった。 「まあまあ、素敵な彼氏さんね」と冗談交じりに言われたとき、笑いながら否定した葵の声には、確かな揺らぎがあった。 あの人の中にも、何かがあるのだと愁は感じていた。過去の痛みか、今の不安か――それとも、自分への躊躇いか。 俺は、涼風さんの気持ちに気づきたい。 護るだけじゃなくて、ちゃんと向き合っていたい。 任務は大事だ。 護衛としての責務は、決して曖昧にはしない。 けれど、心を押し殺すことが今は“正しさ”とは思えなかった。 この想いが、葵を護る力に変わるのなら。 それなら、抱えていてもいい。 誰かを好きになることは、弱さじゃない。 むしろ、それは“本気で護りたい”と願う強さ の一部かもしれないのだから。 夕暮れの風が、ふたりの間をそっと撫でていく。 今日という一日が、静かに終わっていく中で、 愁の胸には確かな決意が芽生えていた。 “明日も、隣にいられるように。ちゃんとこの人を護れるように” 任務と、想い。 どちらか一方ではなく、その両方を手放さずに進んでいくために。 愁は、もう一度そっと隣の横顔を見つめた。 その視線は穏やかで、けれど決して揺らがなかった。

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