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第二十六話
湿気を帯びた夏の路地裏には、蝉の声さえ届かない。
駅前の喧騒からわずか数百メートル――それでも、ここは別世界だった。
彼はそこに立つ。
足音を止め、呼吸を浅く整える。
彼は知っていた。――ここで来る、と。
わざと護りを緩めた。元々小さな町工場が並んでいた路地を開発中・老朽化点検中・通行止めなどを装って、一般人の立ち入りを制限したこの
“狩り場”に誘導した。
この時点で、愁にとって戦闘の“八割”は完了している。
視線の端に、意図された「気配」が徐々に包囲を完成させていく。
――ここなら、誰も巻き込まれない……
湿気を帯びた風。鉄と油の匂い。気配が満ちる。何の挨拶もなく、爆音すらなく、それは
始まった。
背後から、路地の奥から、突如として踏み鳴らされる足音――。
最初に飛び出してきたのは、巨躯の男だった。建物の壁より厚そうな腕。拳は岩のようで、走るだけでアスファルトが震えた。
愁に向かって一直線、叫び声と共に振り下ろされる、全力の一撃。
「潰れろやァッ!!」
だが、愁は既に横にいた。
回避などという言葉では到底追いつけない、風のような間合いの抜け方。
骨が折れる音は、肉の裂ける音よりも鈍かった。
男の前腕が、ありえない方向にへし折られる。二の腕と前腕の間が、まるで軟体のように曲がり、骨が皮膚を押し上げて浮かび上がった。
「がああああっッ……むぐぅぅぅぅぅぅッツ!!??」
痛みに叫び声をあげようとした瞬間――
「五月蝿い」
愁の手が男の口を塞ぎ、回した。180度、音もなく。男は首をねじられたまま、肉として地面に崩れ落ちる。
「……つぎ」
その声に応じたかのように現れたのは、薄ら笑いを浮かべた男――
「今度ぁ、どう避けるぅぅッ……」
手首から滑り落ちる銀光。ナイフ。
一切の前置きなく、移動しながら次々と投擲される刃。躊躇も、目視の確認もなく、
一本、二本、三本、四本――一直線に急所を狙ったナイフが、角度を変えて五本、六本、七本――
――が、愁はすでに動いていた。
地面を蹴った音は、ほとんど聞こえない。
その身体は風のように滑り、すべての刃を
かすりもしない軌道で抜けていく。
「なッ!?……くっ!!」
動揺。男は低く踏み込み、震える手で最後に
取っておいた8本目を抜き、死角から斬りかかる。
だが、その瞬間だった。
愁の手の中に、銀の閃き。
男が最初に投げたうちの一本を、いつの間にか
愁は“握っていた”。
「返すよ。」
それは音もなく、男の右目に吸い込まれ――
「ぎッ!!?」
そのまま後頭部を突き抜け、脊椎を折り、首の骨を砕く。刃の力ではない。“角度”と“速さ”だけで、殺した。
男の身体はピクリとも動かなくなり、崩れ落ちる。手からは最後のナイフが転がった。
直後――銃声。
サプレッサー付きのオートマチックが乾いた音で火を噴く。三方向からの発砲。無言で撃ち続ける。
愁は、その射線上には既にいない。
踵を返し、壁を蹴り、細い空間を縫うように
滑り込む。弾道の角度、距離、風、銃手の癖すら読んだ上での軌道。
「なっ……!?」
「どうなってんだこいつ……!」
弾が尽きかけ、最も近い一人が弾倉を再装填するために一瞬、弾幕が消えた――
そこに――
愁はためらいなく踏み込み、鋭い一閃。
「ぎッ!!?」
切断された前腕は銃ごとアスファルトに転がり、微動だにしない。
「ぎゃあああぁあぁあッッ!!」
愁は、その腕が名残惜しそうに掴んでいる銃を
引き剥がし構え、乾いた銃声が二発――
一人は頭蓋を割られ、もう一人は胸を撃ち抜かれた。
アスファルトに伏す二つの肉塊。そして最後の一人。腕を切り落とされた男は地面を這い、必死に逃げようとしていた。
「ひ、ひいい……たす、け、たす――」
「無理です」
愁はぽそりと呟き、顔をゆがめもせず、銃口を
向ける。
「ひっ!??」
サプレッサー越しの乾いた音が弾切れまで四回響き、静寂が戻る。沈黙の中には、血と硝煙の匂いだけが濃く残った。
愁はさっきまで、呼吸をしていた連中のポケットや胸元から、数台の通信端末を回収する。
ログを読み、履歴を見る。そこには
“会社経由”の依頼主からの連絡の痕跡が複数確認できた。
いいペース……あと少しで……
依頼主を特定し、確実に仕留めるために、葵からすべての矛先を自分に向けさせてる為に動いていた愁。
彼は自分のスマートフォンを取り出し、通話を始める。
「コードDTD、お願いします。掃除と、回収を。5体です。位置は限定解除地域H6W8……
いつも、ありがとうございます。」
通話を終える。
ふと、風が頬を撫でた。
そのとき――
愁の脳裏に、ふと浮かんだのは、駅前で葵が
見せたあの無邪気な、けれど、どこか影のある
笑顔だった。
「……もうすぐです」
ぽつりと呟く。
その顔には、ついさっきまでの死の仮面はない。
ふっと、微笑む。
人を殺し終えた直後の顔とは思えないほど、優しい微笑み。
そして、白シャツの袖に返り血を滲ませたまま、ゆっくりと路地裏を後にした。
――足取りは、まるで何もなかったように軽かった。
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