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第二十七話
「日向」で働き始めてから、ちょうど一ヶ月が経つ頃だった。
愁の潜入生活は、静かに、けれど確かに変わっていた。
朝、駅の前で葵と待ち合わせ、葵のお気に入りの愛車の隣に乗せてもらい、山道を登る。緩やかな
カーブ、木々の間を抜ける風。
それらすべてが、日に日に特別なものへと変わっていく。
それは愁の心の中に生まれた感情が“恋”だと
自覚した時から――
だが、自分は――人を殺すために生まれ、育て
られた。
恋や日常を求めるには、あまりにも場違いな場所にいる。
命を奪うことに迷いはない。けれど、葵の隣に
立つことだけは、何度も問い直してしまう。
その問いは、胸の奥に静かに巣食っている。
年齢も、生きてきた道も、何もかも違う。
葵が自分をどう見ているのかも、分からない。
けれど――たまに視線が重なるとき、ふと視線を
逸らされたり、呼んでもいないのに名前を呼ばれたり。
言葉の端に、触れてしまったような“何か”を、愁は感じていた。
あの日、あの買い出しに初めて一緒に行った日。午後を過ぎた頃から葵の笑顔が少し陰っていたことにも、愁は気づいていた。
だが、葵はそれを押し隠すようにいつも通りに振る舞い、穏やかな仕草で珈琲を淹れ続けていた。
だから、無理に踏み込むことはなかった。愁は葵を傷つける事だけはしたくなかった。
ただ、心のどこかで望んでいた。
――あの人が少しでも、俺を……
愁が狙われた七度目の襲撃。
通行が制限された区画での戦闘は、愁の中でも明確な転機となった。
自らを囮にし、標的になるよう導き、そして全員を“消した”。
残された端末から辿った連絡網は、着実に依頼主の所在を狭めつつある。
――もう少しだ……
そう思えるようになった頃、「日向」に思わぬ形で注目が集まり始めた。
「日向」の常連である近所の老人が、孫娘を連れてやってきた。
「おじいちゃん、この店、昭和すぎる~って思ってたけど……」
孫娘は、カウンターで接客をしていた愁を見て、目を見開き、無言でスマートフォンを取り出した。
何枚も写真を撮られたが、愁は特に気にしなかった。
整った顔立ち、艶のある黒髪、静謐な気配。
自分の容姿が人目を惹くことは、過去の経験からも理解していたし、そもそも組織の力があれば、どれほど拡散されようと制御は可能だ――
そう思っていた。
――バズった。
「森の中に咲く美少年」――SNSを中心に、瞬く間に拡散され、平日はもちろんのこと週末になると、見たこともない客が押し寄せてきた。
「うわ、本物……写真より綺麗……♡」
「名刺とかってないんですかぁ?」
「LIME、教えてくれません?」
「彼女とか……います?ねえ、好きなタイプは?」
まるで、見世物にされたかのように囲まれ、
愁は苦笑を浮かべながら答え続けた。
「お客様、申し訳ありません。個人情報の
やりとりは、お店の規定で……」
その穏やかな声に、女性客たちはますます
色めき立ち、店の前に出来る行列の距離を延ばすことになった。
店の隅にこっそり置かれるプレゼント。伝票の裏に書かれた連絡先。
騒がしさの中で、ふとカウンターの奥に視線を向ければ、葵の表情が――ほんの僅かに、寂しげに見えた。
それは気のせいではないと、愁は確信していた。
任務が終わったら、自分は消える。
それが“暗殺者”としての終わり方だ。
けれど、消える前に、もし一言だけでも、葵が
自分に“感情”を持ってくれていたなら。
それだけで……
愁は初めて、任務の先に“未来”を思い描いた。
そしてそれを、恐ろしく感じてしまう自分自身に、そっと眉をひそめるのだった。
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