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第二十九話
鋼鉄の床、ヒールの音が鳴り響く。
地中深く、あらゆる爆撃や干渉をものともし
ない鉱石と装甲に囲まれた空間――
《深骸域》
その最奥、冷却システムが無骨に唸る心臓部には、視界を覆い尽くすように湾曲した巨大な壁面スクリーンが据えられている。
光は無機質。温度のない蒼白な輝きが、指先から心の奥までを氷のように冷やしていく。
そこに映し出されているのは、世界各地の
戦火、密売、政変前夜、テロの胎動。――そして、その“兆し”すらも。
映像はどれも、通常ではアクセス不可能なはずの角度と鮮明さを誇っている。
「九条さん、予定されていた視察を中断されるのですか?」
傍らに並んだ黒服の青年が、小さく問いかける。指揮官用の端末を抱えたその姿は、緊張と
敬意に満ちていた。
京之介は答えず、ただ朱を含んだ艶やかな前髪を指先でゆるりと払う。
紅の唇が、静かに笑む。
「……凛ちゃん、ようやってくれはったけど、
惜しかったねぇ……」
ワインレッドのスーツに細身のシルエット、
ヒールが金属の通路に音を刻むたび、そこにいる兵士たちの視線が――それがどんなに任務に忠実な者であれ――一瞬、吸い寄せられてしまう。
それほどに京之介は“異質”だった。
この機械の巣窟に在って、彼は咲いた毒の花。
立ち止まり、凛からの報告と同時に送られてきた戦闘ログと、逃走した標的のヘリの経路を映し出している。
ホログラム越しに見る衛星画像。
幾重にも偽装された航路。無国籍の積荷コード。
だが、1000を超える数の衛星〈白骨軌道〉の解析精度は桁違いだった。
「んふふ……ええなぁ、うちの子ら。ほんま、
有能やわぁ……ほんで……」
優美な動作で指先をスライドさせると、逃走
ルートの先――日本のとある山間地の空港施設に光点が留まる。
「嬉しいわぁ……わざわざ親子揃って、帰省してくれはって……」
同時に別の兵士が近づいてくる。黒い戦術服に、階級章もない無言の男。
「九条さん、迎撃部隊を随行させましょうか」
返事を求めるというよりは、儀礼のような問いだった。
この場で京之介にそれを訊ねる者は、誰もが答えを知っていた。だが一応、訊ねるのが“作法”だった。
問いを投げた若い兵士も、そのことをよく心得ているらしく、整えた姿勢のまま、うっすらと肩を緩めている。
京之介は、唇に紅のような艶を宿して、ひらりと微笑んだ。
「うふふふふふ……♪ いらんわぁ。そないなお飾り、うちには足手まといや」
その声は優しく、けれど有無を言わせぬ確信と、自身への絶対的な信頼を孕んでいた。
まるで、百合の香を纏いながら毒を滴らせる、蝶のような男だった。
「かしこまりました。」
兵士が一歩、後ろに引いた。
別の兵士が端末を操作し、発進を待つ漆黒の
機体――
超高速輸送機〈桔梗〉は格納庫内に浮かび上がる。
音もなく稼働する磁気昇降システム。何処で
開発されたのか、未来の技術はあくまで
「静かに」、そこにあった。
「ノンストップで。ルートは……西回り。
制空圏の監視は任せるわ」
「かしこまりました。九条さん、お気をつけて」
京之介は、搭乗口へと向かう足を止めず、ただ手の甲を小さく振った。
「あぁ、愁には……知らせんでええよ。たぶん、今ちょうど青春している頃やもん。可哀想やろ? んふふふふふ……♪」
そのまま、ワインレッドのスーツに身を包んだ背中が機体の影に消えていく。
妖艶な姿が闇に紛れた瞬間、基地中に漂う空気の温度が、ふっと一度、下がったような錯覚さえ起こる。
それはただの作戦遂行ではない。
かつて自らが育てた“弟”が笑えるようになった今、その歩みに泥を塗らせないため――
静かに、冷たく、凛として。
赤い瞳が、昇りゆく日本の空を捉える。
「ちょっとだけ、お兄ちゃんに時間、くれへんか、愁――」
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