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第三十話
「ありがとうございました。」
女性たちの笑い声が遠ざかっていく。
頬を紅く染め、足取り軽く去っていくその姿は、まるで恋をした後のように幸福そうだった。
愁はその背を見送りながら、カウンター越しに
視線を横へ滑らせた。
葵が、そっと俯いているのが見えた。
――あんな顔、もうできそうにない。
そう呟いたように見える唇の動き。
愁は何も言わず、ただその横顔を見つめた。
柔らかい光の中で、葵のまつげが影を落として
いる。胸の奥が微かに疼く。
葵の目は、決して自分に向かない。
その視線の先にあるのは“お客様”で、
自分は――ただのアルバイトで、店長の下にいる
だけ。けれど、葵の笑顔が誰かに向けられる
たび、愁の中の何かが軋んだ。
その想いが何なのか、愁はもう知っている。
だけど、それを口に出すことは許されない。
そんな日々のなかで――ある日、雨が降った。
昼過ぎから降り始めた細い雨は、夕刻には雷を伴い、古びた喫茶店を包み込むように荒れ始めていた。
店内がようやく静まり返ったころ、葵が厨房の奥で棚を見上げていた。
「……補充、忘れてたな……」
そう小さく呟いた声が聞こえる。
高い位置の物を取ろうと、椅子に足をかけた
葵に、愁はすぐ声をかけた。
「涼風さん、それ、俺がやります」
いつもなら素直に任せてくれるはずだった。
けれど、その日に限って葵は首を横に振った。
「僕がやるから、いいよ」
その声には小さな意地と、
“誰にも頼らずにいたい”という痛みが滲んでいた。
「危ないですから、俺が――」
手を伸ばした瞬間、葵の細い腕がそれを払いのけた。
「別に、いいって言ってんじゃん……!」
感情の揺れを抑えきれなかったような声音。
愁はその手元から、何かが崩れ落ちていくような気がして息を呑んだ。
その直後――
雷鳴が、窓の外を真っ白にしたと思った瞬間、
厨房の明かりが一瞬で消え、空気が震えた。
「うわッッ!!?」
そして……驚いた葵の身体が宙に浮いた。
「……っ!」
愁は考えるより早く、葵を抱きとめていた。
倒れた椅子の音。濡れた空気。
背中に痛みが走ったが、腕の中の体温を離す気にはなれなかった。
「涼風さん、大丈夫ですか!? 痛いところありませんか!?」
暗闇の中で、葵の息が震える。
「ぁ、う……だ、大丈夫……って、僕なんかより、月美くんこそ”…」
その声が掠れて、泣き出しそうで――
愁の心臓が強く跳ねた。
「俺は平気です。それより、涼風さんに怪我が
なくてよかった……」
腕をゆるめず、そっと背中を抱き寄せる。
葵の身体が小さく震えているのがわかった。
それが雷のせいなのか、別の何かなのか、愁には分からなかった。
「……ごめ、ね……月、美くん……」
葵の声は、消え入りそうに弱かった。
愁は首を振って、低く囁く。
「気にしないでください。俺が勝手にやったことですから……」
「でも……背中……」
「涼風さんの方が、震えてます。……落ち着く
まで、こうしていていいですか……?」
葵は答えず、ただ胸元に顔を埋めた。
その頬に触れる温もりが、愁の心を締めつけた。
外では、雷鳴が続いている。
けれど、愁の中では別の音が響いていた。
***
雷鳴が遠ざかり、停電したままの厨房には非常灯の淡い明かりだけが残されていた。
ぼんやりと揺れる光が、厨房の奥にまで届き、
愁の頬を、そして腕の中に抱いた葵の顔を、
かすかに照らしていた。
腕の中で、葵は震えていた。恐怖なのか、驚きなのか――それとも、もっと深い感情なのか。
愁はそっと葵の背に腕を回し、強くも優しくもなく、ただ葵を“守る”ことだけを選んだ。
任務として人を殺めるたび、冷たくなっていく指先と心。
けれど今、抱きしめているこの身体は、温かく、かすかに震えながらも、離れようとはしなかった。
「……大丈夫ですか?」
静かな声で尋ねた愁の言葉に、葵は小さく頷いた。
その仕草が、愁の胸を締めつける。
この場所で、葵と過ごした日々は、既に三ヶ月を数えていた。
少し前、京之介から連絡があった。裏で動いていた“標的”は潰され、もう護衛任務は完了している、と。
――あとは、涼風さんに、何かそれらしい理由を
話して、ここを離れればいい……
それだけのはずだった。
けれど、愁の心は思うように動いてくれなかった。
朝、駅で葵と会うまえのそわそわとする時間。
「おはよう」と微笑んでくれること。
小さな背中、それに、人生で一番美味しいと思えたサンドイッチ。
全部、全部、もうすぐ手放さなければならないとわかっているのに――
離れたくない……
愁は思ってしまった。そう思ってしまった。
葵が、そっと顔を上げて、愁の胸に手を置く。
その瞳は、真っ直ぐに愁を見つめていた。
「月美くん……背中は痛くない?あとで見せて……確か救急箱が……」
その言葉さえ、愛しくて、胸が苦しくなる。
「俺は、大丈夫ですよ」
静かにそう返しながらも、愁の胸の奥は、
言いようのないほどにざわめいていた。
どうして、今、ここにいる。
どうして、貴方のそばにいてしまった。
答えなんて、最初から決まっていた。
好きなんだ――
どうしようもなく、どうしても――
その想いは、守ることに集中していたはずの
愁の心を、毎日少しずつ浸食していった。
暗がりの中、ふたりはゆっくりと近づいていく。
どちらからともなく、息を止め、呼吸が重なる。
「涼風さん……」
「……ぁ……愁くん……」
葵の瞳が、愁の唇を見つめた。
愁は、その視線から目を逸らさずに、ほんの
わずかに顔を傾ける。
そして――唇が、そっと触れ合った。
それは愁にとって、初めてのキスだった。
血で汚れた手でしか世界と触れたことのない
この身体が、誰かの温もりに触れたのは――生まれて、初めてのことだった。
葵の唇は、柔らかくて、温かくて、涙が滲みそうなほどに優しかった。
押しつけるでも、奪うでもない。
ただ、心を重ね合わせるような、静かで、甘くて、切ない口づけ。
……こんなこと、しちゃいけない……それなのに……
もうすぐ、ここから消え去る。
それがわかっていながら、それでも愁は、
どうしてもこの気持ちを、抑えることが出来なかった。
唇が離れたあとも、愁は葵の頬にそっと鼻先を寄せた。名残惜しむように、微かに震える吐息が触れる。
静かに目を開けると、すぐそこに――触れられるほどの距離に、葵の瞳があって、その潤んだ光の奥に、愁は自分の顔が映っているのを見た。
驚くほどに、切なげな表情で。
それが、あまりに哀しくて、哀しくて――胸が
ひどく痛んだ。
どう思ってるんだろう……こんな俺のこと……
それが聞きたくても、言葉にはできなかった。
どれほど好きでも。どれほど想っていても。
それを声に出した瞬間、壊れてしまいそうで――
怖かった。
ただひとつ、愁の胸の奥で、ひっそりと灯る
想いだけが、消えずに残っていた。
――もし……叶うなら、もう少しだけ、このままでいたかった……。
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