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第三十一話

 深夜、雨の止んだばかりの路地裏に、ほんのり湿った空気が澱んでいる。 夜風にあおられ揺れるビル看板の灯りが、地面に長く伸びた影を淡く映し出していた。  かつては繁華街だった一角は、今や犯罪に手を染めた者達の格好の隠れ家となっている裏通り。 人の気配は皆無。  代わりに、何人もの屈強な男たちが、無言で、無惨に、無慈悲に地面に転がっていた。 誰一人、銃の引き金すら引けなかった。 全員が全員、目を見開いたまま絶命している。 まるで誰も“京之介”という存在に触れることすら許されなかったかのように。  艶やかな朱を含んだ前髪を、指先でふわりと かき上げる。 その仕草は、戦場には不似合いなほど優雅で―― けれど、その姿は確かに“死”そのもののように 美しかった。 ヒールが濡れたアスファルトを叩く音が、静かに響く。 九条 京之介の小太刀には、まだ血が滴っていた。 「……うふふふふふふ♪」 笑う声が、闇に混じって風に乗る。 その唇に微笑みを浮かべたまま、京之介は倒壊しかけの建物の奥へと進んだ。 そこには―― 「ひ……ひぃ……バ、バケモノ、バケモノが…… 化け物が来たぞ……おいッ!!おいッ!誰かッ、誰かいねえのかッ!!?こいつを殺せる奴ぁぁッッ!!?!」 震える声の息子。京之介の通った誰も生きていない空間に向かって虚しく叫んでいる。 父は、壁際で必死に逃げ道を探していたが―― もう、道はない。 「酷いわぁ、バケモンなんて、いっこも可愛いないやんか……それになぁ、この道を選んだんは、あんたらやろ?」 京之介は言った。 艶やかな目元に浮かぶのは、同情でも、怒りでもない。 ただ、圧倒的な“隔絶”。人とそれ以外を見下ろすような、優雅な残酷さ。 「こッ、こ、交渉しよう……!なっ!なぁッ! 組もうじゃないか!!」 父親は、青ざめた顔で懇願するように言った。 「んー、あんたと交渉してぇ、うちらになんの得があるん?」 「――ぁ、あんた……“あの実験体ども”の仲間だろッ!?」 父親の言葉が、虚空に飛んだ。 ――“あの実験体ども”という言葉に、京之介の指が微かに止まる。 「知ってるんだよ……戦争みたいな状況に、赤い目の“異常者”が介入して、どんな軍隊でも たった一人で制圧してまわってるって、噂ぁ……」 息を荒げながら、彼は言葉を続ける。 「この間、俺達の施設を壊滅させたガキも、 あんたも、それなんだろッ!なッ!凄い力じゃないかッ!」 父親の目は狂気に歪んでいた。 「俺は、金なら、権力ならいくらでも持ってる……なッ?一緒に組もう。お前たちの“力”があれば怖いものなしだッ!何が望みだッ? 」 ――その言葉に。 「……うふふふふふふ……♪」 京之介は首を傾げて、微笑んだ。 「よう喋るなぁ、ほんま」 言いながら、ヒールの先を血溜まりに踏み入れ、 紅い水面を波立たせる。 「けどなぁ――どんだけ金積まれても、あんた みたいなんとは組みとうあらへん……」 小太刀が、右手で軽く弾かれた。 「ひっ!?」 「何が望みやて?……せやなぁ、あえて言うなら――」 朱の刃が、空を裂いた。 「二度と、息せんといてほしいわ……」 刹那、風を切る音すら聴き取れぬ速さで、 斬撃が親の喉元を走った。  その赤い瞳は、暗がりに光る鏡のように冴え渡り、次は子の方に向く。 「うふふふふふふふ……♪ あんたのパパおもろいこと言うてたなぁ……」 「なぁ、なぁ、あんたッ!も、もういいだろッ!?親父は死んだんだしよ、悪ぃのは全部親父なんだッ!」 「実験体とか、異常者とか……」 京之介の笑みは、崩れない。 「うちの可愛いしてしゃあない、あの子らが?」 その笑みが、僅かに歪んだ。 「それを言うなら――お前らのほうが、“人”や あらへんよ」 「待てッ!待てッ!!ホントに俺は関け……」 ふ、と風が吹く。 その一瞬、空気が裂けた音がした。 気づいたときには、小太刀が、光の帯のように 舞い 「ぃ……」 悲鳴もあげられなかった、子は―― 瞬時に四散した。肉片と血飛沫が散り、死に至る音だけが、やけに静かに響く。 「ん――」 倒れた“子”の断面からは、肉の感触ではなく、 わずかに異質な銀の光沢が覗いた。 京之介の瞳が、ほんの一瞬だけ細められた。 「……あらあら」 やっぱり、“本物”やない…… 「うふふふふふふ♪ よう出来てるわ、ホンマ」 だが、それでも構わなかった。 あくまで“標的”として、同じように罰するのみ。 「まぁ――」 濡れた刀を振るい、鞘に収め、何もなかったように軽やかに踵を返した。 「愁ちゃんには、ちょーい苦労かけるやろ けど……うふふふふふ♪」 その笑みだけが、どこまでも艶やかに、美しく浮かんでいた。  ここは都心から少し離れた、築年数の古い高層マンションの一室。防音処理された窓のない室内に、灯りはない。 冷えた光に照らされた壁面には、無数の拳痕。 低く唸るような呼吸。 その男――四十代半ば。 元は政財界を牛耳る一族の次期後継として、金も力も地位も手にしていたはずの男。 だが今は、全てが瓦解した。 「ッざけんなよ……ちくしょうが……っ!!」 濃く焼けた肌、盛り上がる筋肉、指の骨が軋む ほどに壁を何度も殴りつける。 過去の喧嘩で潰れた鼻と、荒れた拳は、昔の “武勇伝”の証。 若い頃から札付きで、気に食わない相手は拳で 黙らせてきた。 誰も逆らわなかった。逆らえる者などいなかった。 「……あのガキの、せいでよ……っ」  テーブルの上に、数枚の古びた写真が無造作に散らばっている。 どれも、まだ幼さを残す“涼風 葵”の写真。 乱暴に脱がされ、怯えた顔で泣きながら、こちらを見上げるその表情。 「……はぁっ……クソッ……!」 写真を掴むと、破り捨てる。が、すぐに別の写真を手に取り、また握り潰す。 「俺がよォ……誰よりも金を積んで、時間も手間もかけて、壊してやったってのにぃぃッ……!」 奥歯がきしむ。 唾を飛ばしながら吠えるような声が、閉ざされた空間に響き渡る。 「葵ぃ……ッ、テメェなんざ、さっさと消してッ!俺の明るい未来が始まるはずだったってのによぉぉぉぉぉッッ!!」 怒りに任せて、机を蹴飛ばす。 ガラスの破片と写真の破片が、床に散る。 その中央で、赤い瞳の男の写真が、顔を見せていた。 ――あの男娼の護衛。  調べさせたところ、いたって普通、経歴になんの問題もない。だが、あの異常な強さは人間離れしている。 そして、この赤い瞳は、一人で百人以上の兵隊を秒で沈めたという噂もある。 ……親父がたまに言ってた、どっかの国の兵器か? 実験体か? ……だが、男にとってはどうでもいい。 今の男には、もう、怖いものなどない。 「どうせ全部終わりならよ……最後くらい、俺の手で終わらせてやる……!!」 口元が歪む。笑っているのか、怒っているのか、もはや分からない。 「……葵ぃぃ……てめえをなァ……這いつくばらせて、泣かせて、最後はこの手で殺してやるよォ……」  爛れた恨みと、ねじれた欲望が、混ざり合って渦を巻く。  それは愛でも、執着でもない。 ただ、憎悪の塊。  過去に「犯してやった」という事実だけが、彼の中で唯一の“支配”だった。 だがその支配も、崩された。 男は拳を固める。 そして一つ、呟いた。 「赤目のガキィィ……てめえもだ……その赤い目、潰してやるからなぁぁぁ……」 低く、野太く、嗄れた声。 理性を失った怒号は、やがて呻きへと変わり、 男の呼吸だけが部屋に残る。 濁った眼の奥に、もう光はなかった。 ただ、“殺意”だけが、生きていた。

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