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第三十二話
閉店時間。葵の声に、愁は「はい」と微笑んだ。
けれどその笑顔の奥では、どうしようもなく
複雑な思いが渦巻いていた。
守るべき任務と、離れがたい想い。
その狭間で揺れながら、愁は「日向」での静かな時間に、心が少しずつ満たされていくのを感じていた。
けれど、その安らぎが長く続かないことも、愁は理解していた。
任務の終了は、既に京之介から通達されていた。
葵を狙っていた“標的”はすでに処理され、あとは報告書を書き、所定のプロトコルを完了させれば、任務は正式に終了となる。
その事実を受け入れることが、これほどまでに苦しいとは思っていなかった。
朝、駅前で葵を待つ時間。
葵の差し出してくれる甘いミルクたっぷりの
コーヒー。葵の微笑み、葵と何気ない会話を交わすたびに、愁は心の奥に確かなものを育ててしまっていた。
それでも自分は兵器だ。殺すために育てられた存在。
愛など知らず、優しさも与えるためのものではなかったはずなのに。
昨日のキス――それは愁にとって、生まれて初めて交わした本当の心の接触だった。
葵の震える声が聞こえたのは、厨房の奥でだった。
「愁くん……少し、お話……いいかな?」
その一言に、愁の心臓が小さく跳ねた。
視線を向けると、葵の顔はどこか決意に満ちていて、それがまた不安を煽った。
厨房の中は静かで、まるで世界が、葵の言葉を聞くためだけに息を潜めているようだった。
「ぁ、あのさ……お店、辞めてくれない、かな……」
その言葉に、愁の思考は一瞬止まった。
ああ……
やっぱり、これが答えなのだと。
確かに、自分がここを離れることは既に決まっていた。ならば、葵の言葉に従うだけでいい。
任務は完了。自分は次に与えられる任地に向かえばいい。
それが一番、葵のためでもある。
なのに。
葵の声の震えが、愁の中で何かを揺さぶった。
「僕は……もう、無理だよ……これ以上……ここに君がいるの、つらいよ……」
愁は何も言えなかった。
目の前で、葵がシャツのボタンを震える指先で外し始める。
「ッ!涼風さん、何を……」
「……見せたくないよ、こんなのっ!!でも、
でも……見てほしい。僕が……僕が、どれだけ、
汚れてるか」
その言葉は愁の胸に、鋭く突き刺さった。
なんで……どうして、こんなにも……
露わになった葵の肌に刻まれた無数の痕。
それは、愁がこれまで無数に見てきた傷痕とは
違っていた。
それらは、戦闘の傷ではなく、抗う術もなく、蹂躙され続けた過去が刻み込まれた傷だった。
「これが……僕なんだよ」
葵の過去。それはあまりにも残酷で、そして、誰よりも美しくて優しいこの人が背負うには重すぎた。
「子供の頃、親の借金の肩代わりに身体を売られてさ……酷い男達につけられた傷痕、なんだ……」
愁の赤い瞳が揺れる。それでも視線を逸らさなかった。
こんな傷を、俺は癒してあげられるのか……
葵の声が涙に濡れるたび、愁の心は強く引き寄せられていた。
「……ごめんね……触れられる資格なんてないのに……それなのに……君に、触れてほしかった」
その一言に、愁の視界が滲んだ。
赦されたいのは、きっと自分の方だった。
殺すことしか知らず、奪うことしか教わらなかったこの手で、唯一抱きしめたいと思った人が、こんなにも弱って、壊れそうなほどに震えている。
もう、迷う理由なんてなかった。
足が自然と動き、葵の前に立つ。ふわりと、
その身体を抱きしめた。
「……嫌です」
葵の拒絶を、静かに否定する声。
「俺は、ここにいたいです。葵さんの隣……」
この想いは、任務ではなく、命令でもない。
これは、自分の――心。
葵のすべてを包み込みたかった。過去も、
傷も、痛みも、その涙も。
世界でただ一人、命令なんてなくとも守りたいと思った。
最後は、葵の涙交じりの微笑みに、そっとキスを返した。涙の味がするその唇は、誰よりも愛しかった。
「葵さん、俺、バカじゃないです……こんな素敵な人を……好きになった……ン……」
その言葉が、葵の心を、愁自身の心を、静かに解きほぐしていった。
いくつもの過去を背負って、それでも今、こうして二人が寄り添っている。
愛しいという想いが、ただ確かにそこにあった。
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