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第三十三話

 昼下がりの街は、夏の陽射しの中にどこか緩やかな風が吹いていた。  午後の陽が傾きはじめた頃、「日向」で一夜をともにして、午前中まで仲睦まじく過ごした葵と愁は「日向」の買い出しに出かけていた。  行き先は、少し離れた業務用スーパーと卸売の 専門店。 本来は仕事の一環だけど――今日はどうしても、 特別な気分だった。  車の助手席で、愁は窓の外を眺めながら、隣に座る葵の運転姿をちらりと盗み見る。 その指先が、カーブを曲がるたびに自然とシフトノブに伸びる。 光の具合で、ふわりと長い髪が揺れた。 「……そんなに見られると、事故るよ?」 「……すみません」 「ふふ、冗談♪」  ホームセンターに着くと、葵が用意した買い物リストを手に、ふたりで店内へ。 紙ナプキン、ミルクピッチャー、カトラリー…… いつもなら事務的に終わる作業も、今日はなぜか 全部が新鮮で、楽しい。 「このお皿、新しく出たやつじゃない?この前 お客さんに“可愛い”って言われたやつのシリーズ」 「本当ですね……これ、追加してもいいんじゃないですか?」 「うん♪やっぱり見る目あるね、月美くん」  そして、珈琲豆の店では、ふたり並んで香りを確かめる。 袋を開けて、ふっと顔を寄せ合う距離―― 自然と視線が交わるたびに、お互いがこっそり 目を逸らして、でも、すぐ笑ってしまう。  冷蔵ショーケースの前では、葵が「これは、 まかない用だから……」と小さなケーキを何個も手に取って、愁は真剣な表情で「それは……多すぎませんか?」と真顔で返す。 そのやり取りに、ふたりともつい吹き出してしまう。  レジを終えて、荷物を車に積み終えた頃には、 買い物袋以上に、ふたりの間には温かい空気が たっぷりと詰まっていた。  茜色が町をそっと包みはじめていた。 買い出しの荷物を店に置いて駅前のロータリー。車を停めたあと、エンジンの音がしばらく経って、静かに途切れる。 窓の外では、人々がそれぞれの帰路を歩いているのに、車内だけはまるで別世界みたいに、 しん……と穏やかな沈黙が流れた。  葵はハンドルに手を置いたまま、何かを言い出そうとして、唇を閉じた。 ちらり、と愁を横目に見て、すぐに目を逸らす。 頬がほんのり染まっていて、長い前髪の陰から、それを隠すように伏し目がちになっていた。 「……着いたよ」  葵がそう呟いたときの声は、いつもより少しだけかすれていた。 別れ際が寂しいのか、それとも――それ以上の感情を押し込めようとしているのか。  愁が「ありがとうございました」と微笑もう とした、そのときだった。 「……っ、ま、待って……」  か細く呼び止められて、愁は動きを止める。 視線を戻すと、葵が運転席のシートに座ったまま、小さく息を吸い込んで、ゆっくりとこちらへ身体を向けていた。 「その……あの、ね、別に……特別ってわけじゃないけど……」  言い訳みたいに前置きしながら、けれど 真っ直ぐに愁の顔を見る。 恥ずかしさが先に立って、声も小さくて、視線が泳いでいる。 それでも――葵の手がそっと愁の手の甲に触れたとき、指先はほんの少し、震えていた。 「……今日、楽しかったから……その……」  何を言おうとしているのか、愁にはもう分かっていた。けれどそれを遮らず、ただ静かに見つめ返す。  葵は一度目を伏せて、深呼吸をひとつ。 それから、おそるおそる顔を近づけてきた。 まるで触れたら壊れてしまいそうなほど、繊細な仕草だった。  ほんの数センチの距離――愁の吐息に触れるところで、葵が目を閉じる。 次の瞬間、そっと、唇が重なった。  最初はふわりと、ためらいがちに。 けれど、触れ合ったあたたかさに安心したのか、 葵の指先が愁の袖をぎゅっとつかんだ。 それが、「行かないで」なんて言えない代わりの、精一杯の気持ち。  唇が離れると、葵の顔はもう真っ赤だった。 視線を合わせられず、もぞもぞと手を離し、 運転席のシートに小さく縮こまる。 「……きょ、今日はありがとう。また、明日ね……おやすみ」  ぎこちないけど、精一杯の笑顔。 その表情があまりにも愛おしくて、愁は胸が ぎゅっとなった。  そっとドアを開けて車を降りると、 ロータリーに吹く風が急に冷たく感じた。 でも、頬はまだ火照っていて――目の前の世界が どこか夢みたいに霞んで見えた。 また、明日……  愁はその言葉を何度も反芻しながら、その場に立ち尽くし、葵の車が角を曲がり、赤い尾灯が 見えなくなると、早足で人目の少ない “一般人の立ち入りを制限した区域” へと歩き出した。

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