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第三十四話

 駅前ロータリーから、早足で人目の少ない “限定解除区域” へと歩き出した愁。 耳に残る「また明日」「大好きだよ」、頬に 残る、恥じらいながら触れてくれたキス。唇が まだじんわり熱を持っていた。 「…………」 ――もう、限界だ。 愁は一気に駆け出した。向かう先は、人払いが 施された、以前、五人の刺客と戦ったあの無人のゾーン。 期間限定で封鎖されているその場所は、今も静寂と仄暗さに包まれていた。 そこに入った瞬間―― 「……っどうしようおおおおおおおおお!!」 愁は叫んだ。 人生で初めて、腹の底から声を張り上げた。 「マズいって……いやいや、これは……いや、もう……っっ、どうすればいいの!!?」 その場でくるくると何周も回って、アスファルトに膝を突き、頭を抱えてうずくまる。 「なにあれ!? 何あのキス!? 何あの“また明日”!? “大好き”!? ど、どどどど、どーすんの俺ッ!!?」 完全にテンパっていた。 「明日会ったらどうすればいい!? あれか!? 手でも握ればいいの!? それともハグ!? おでこコツン!? ……うわあああああぁぁっ!俺、涼風さんと“おでこコツン”とかしたら絶対爆発する……!」 拳でゴンゴン叩くアスファルトにはヒビが入る。 思い出すのは、今日一日のすべて。 お店での甘い朝。 買い出しのときの笑顔。 照れて手を握るたび、頬が赤くなる姿。 車の中、顔を近づけてきて、そっとキスしてくれたときの、ほんの一瞬の躊躇いと、勇気。 「だ、駄目だ……俺は……暗殺者……だよ……?」 手で顔を覆い、うずくまる。 自分の仕事が、どういうものかを一番理解している。 暗がりから近づき誰にも気づかれず命を奪う。 時に血で手を染め、時に遺族の涙を踏み越えてきた。 そんな自分が―― あんな、光のような人の隣にいていいわけがない。 「いや、だって、ねぇ!? 普通に考えておかしいでしょう!?」 突然また叫ぶ。誰もいないのをいいことに、空に向かって腕を振り上げる。 「涼風さんの隣にいるべきなのは、優しくて! 一緒に笑い合えて! 未来がちゃんとあって! 血の匂いのしない、まともな人間だろ!?」 「あぁぁ……ダメだ……任務じゃなくてもそいつを殺してしまう自身しかなぃぃ……」 ぐるぐる歩きながら頭を抱え、顔を真っ赤にしながらもまだブツブツ言い続ける。 「恋人って何するの!? 毎朝“おはよう”って言いあって、同じお店に出勤するから一緒に“いってきます”“いってらっしゃい”って言いあって、“ただいま”ってキスして、夕飯は二人でカレー作って、甘いものがないと機嫌悪くなる涼風さんに ドーナツ買って帰るんでしょ!? 無理、無理、そんな幸せなことしてる俺、絶対なんかのバグ!!!」 そしてまた地面に突っ伏す。 「いや……したいけど……全部……凄く、凄くしたいけどさ……!」 呻くように言って、肩を震わせた。 「でも……でも、深骸域に戻ったら、どうなる?」 愁の思考は現実に引き戻される。 ――任務完了報告。 ――再配属。 ――機密保持のための記憶消去、もしくは処分。 「……涼風さんと、一緒にいる未来が……なくなる?」 ぎゅっと胸を押さえた。 今日、葵が見せてくれた笑顔。震える声で伝えてくれた「大好きだよ」。 それを奪われるくらいなら、自分がいなくなった方がマシだった。 「……でも、どうすれば……京之介さんに相談する……?」 一瞬、あの艶笑を思い浮かべて震える。 「“んふふふふ♪ じゃあうちが葵ちゃん引き取っちゃおかなぁ〜?”とか言うに決まってる……」 頭を抱える。 「ちがう、そうじゃない、違う違う……もう ヤダ……全部無理ッ……!」 数カ月、「日向」で働いている間に聴いた言葉 全てが、愁の感情となって吐き出され、一生分の テンパりを終えて……ふらりと立ち上がった時だった。 ピッ……という微かな警戒音。 即座にポケットから端末を取り出す。表示されたのは、葵の部屋に仕掛けた超小型監視カメラからの警戒アラート。 ――“対象の部屋に異常発生”。 愁の中で、一気に何かが切り替わった。 「…………誰だ……」 囁くような声に、冷たい鋭さが宿る。 「誰が、触れた……?」 次の瞬間、愁の姿は風のように消えた。

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