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第三十五話
余計な判断は要らない。ただ、行く。
目指すは、葵のアパート――
愁のポケットの中で携帯端末が、低く鋭く振動し、画面に赤いアラームが点滅し続けている。
《警告:室内監視センサー“音声異常検出”》
《危険レベルC→B→Aに推移》
《接続中:監視映像/音声再生モード切替可能》
スニーカーが地面を蹴れば、道路のアスファルトがわずかに軋む。
風を切り裂く音すら追いつかぬ速度で、愁の身体は町の中を駆け抜け――一分、二分ありえない速度で通りを駆け抜け――
三分足らずで愁は葵のアパートに到着していた。
愁の全身に、瞬時に戦闘態勢のスイッチが入った。
赤い瞳が鋭く細まり、背筋に走る緊張が、肌を電流のように駆け抜ける。
目に入ったのは、破壊された玄関扉の鍵。
すでに、“間に合わなかった”のは明白だった。
愁の赤い瞳が、ほんの一瞬だけ、細かく震えた。
だが、心の中にある焦燥も怒りも、今は抑え込む。
「……オペレーター、応答を」
無機質な声で愁が通信を繋ぐ。
次の瞬間、耳の奥にオペレーターの女性の声が届く。
『はい、こちらオペレーター四番。月美愁、声帯認証――完了。状況を。』
「監視端末が反応。対象が拉致された可能性。
周囲半径1kmの監視衛星映像、過去30分分を全開示、解析優先度“深紅”で。今すぐ」
オペレーター四番が即座に反応する。
『了解。監視衛星を対象座標に移行、過去映像を解析中――』
一秒の沈黙が、異様に長い。
『確認しました。黒の箱型車両、車体型式・車体No.取得中。対象者を乗せ移動を開始。現在、都市東部方面へ向かって進行中。目的地は不明ですが――』
「予測を」
『はい……犯行の主犯が第一標的という事、対象の出発地点、接触記録、経路分析から推定……
九十六パーセントの確率で――あの、企業跡ビルと思われます。』
その言葉に、愁の瞳が細くなった。
――まだ、生きて……ビルが再び使われている……
“奴”が生きている――一体、どういうことだ――
かつては繁華街の中心にあった巨大企業の本社ビル。父と子で運営されていたその会社は、
すでに少し前に潰されたはずだった。
非合法活動の拠点として機能していた裏側も、京之介によって発見、殲滅された。
令息も、その父親も、殺したはずだ。
……どうでもいい……
頭に浮かんだ疑問は、後回し。
今、最も優先すべきは――葵を、助けること。
「オペレーター、到着予想地点に緊急で限定解除区域に指定。範囲は半径七百メートル」
『了解……三十分で区域に……』
「五分だ。」
『申し訳ありません、その時間では対処に……』
「急げッ!」
通話を切った瞬間、愁はもう――駆け出していた。
最短距離ではなく、最速ルートを。
足場の高さ、屋根の傾斜、風向きすら計算に入れ――愁は、限界を超える速度で走り出す。
爪先がアスファルトを擦ったと思えば、次の一歩はもう十メートル先。
風が音を置き去りにし、靴底が脳内の地図を
なぞるように、一直線に“そこ”へと向かっていく。
人間ではない。
もはや「走っている」と表現するには無理がある。
言葉として表現するならそれは、疾駆。
それは、爆走。
否――
それは、“愛”そのもの――
脳内に刻まれた訓練の残滓が、次々と身体の
制限を破壊していく。
筋繊維の限界を破り、関節が軋む音さえリズムに変えて、愁は“この身”を超えてなお、速度を上げていった。
雑踏の街路樹を軸に、半回転して屋根へ跳躍。
電線の上を二歩だけ踏み、滑るように屋上へ転がる。
高層の壁面も、重力など無視したかのように垂直に駆け上がる。
小刻みな呼吸は、もはや酸素摂取ではなく
“戦術”の一部だった。
涼風さんが――あの人が無事でさえあれば、それで――
思考が熱に溶けかける。
けれど、愁の心は静かだった。
燃えるような怒りを、冷たい水で包むように――その中心だけが、絶対に揺れなかった。
ビルの屋上を蹴り、愁の身体が宙を舞う。
風が肌を削ぐように吹き荒れる中で、愁の視線は下――一点を射抜いていた。
街道を無遠慮に滑る黒色のバン。
葵が、あの車の中にいる――
ならば、躊躇する理由などない。
体内で酸素が燃える。
筋繊維が悲鳴を上げる。骨格は軋み、血流は
滾り、細胞の一つ一つが、ただ「一点」に向かって臨界を超える。
――今、この瞬間。
葵を、守護するために――
「……ッ!!」
上空、約四階建てのビルの高さから。
愁は翼もないのに、獣のような軌道で急降下する。
バンの天井が視界いっぱいに迫った瞬間、愁の両脚が
空気を裂いた。
瞬間、金属が軋み、天井が歪む。
轟く振動が車内を揺らし、鉄板を叩き潰すような衝撃が、空間ごと押し潰した。
黒いバンの天井は鉄板ごと内側へめり込み、
運転席の天井が砕け、運転手の身体を圧迫する。
肺が潰れ、意識は飛び、ハンドルはがくんと逸れる。
車体はスリップし、蛇行しながらガードレールに突っ込み、火花を散らして止まる。
運転席の天井に立ったまま、愁は微動だにしなかった。
煙の中、わずかに風に靡く黒髪。
朱に染まった双眸が、静かに、葵が閉じ込められている後部座席を見据える。
怒りでも、焦りでもない。
その眼差しにあったのは――
守る者の、絶対的な決意だった。
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