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第三十六話

 「……また明日ね」って、そんな短い言葉なのに、胸の奥がじんわり温かかった。  月美くんが助手席から降りても、唇の熱が消えない。窓の外に小さくなっていく月美くんを、 ルームミラーで何度も確かめてしまった。  頬が自然にゆるんで――あぁ……なんだか夢みたい……  こんな素敵な日が……僕にも訪れるなんて――  駐車場に愛車を滑り込ませて、いつも通り エンジンを切って。荷物を取って玄関に向かう途中で、何気なく空を仰いだ。星は、まだ見えなかったけど、胸の中にはちゃんと光がある。  ドアの鍵を開けながら、あれこれと考えた。 明日のモーニングは何にしようかなって。 月美くん、こないだシフォンケーキも美味しいって言ってくれたから、久々に焼こうかなって。 そして、お店が終わったら、一緒に食べようかなって。  ……けど。  ガチャン、てドアノブを回して、部屋の空気に一歩踏み入れたら、その全部が止まった。 「……ッ、な、に……?」  電気も点けてないはずの部屋の奥。薄闇の中に、ぬらりと“アイツ”が立ってた。 「……よぉ。ずいぶん大人になったじゃねぇかぁぁ。俺の顔ぉ忘れたかぁ……?」  忘れたくても……忘れられない。喉の奥が凍るみたいな、嫌な声…… 「そんなわけないよなぁ?あんなに愛してやったんだからよぉ……?」  男が一歩踏み出した瞬間、全身が悲鳴を上げた。考えるよりも先に、身体が逃げようとした。でも遅かった…… 「逃げんじゃねぇ!!ゴミッ!!」  腕を掴まれた。引きずられた。声を出そうとした。でも、もう一人いた。背後から、何か硬いもので後頭部を小突かれて、視界が歪んだ…… 「は、離せっ! やめてッ、やめてよぉ……っ!!」  けれど男たちは容赦なかった。僕のアパートなのに、足が床を蹴ってるのに、進む先はどこまでも真っ暗な檻みたいだった。  何度叫んでも、誰にも届かない。  ――やっと、やっと少し幸せを掴めた気がしてたのに。  あんなに嬉しかったのに……僕は、やっぱり―― 「幸せになんて……なっちゃいけなかったんだ……っ」  そう呟いた途端、身体が冷たい鉄に押し込まれた。黒いハイエースの後部座席。ドアが乱暴に 閉まる音と、ロックの音。狭い車の内。目の前の男が、笑ってた。 「ははは、懐かしいなァ……その泣きっ顔。 昔と同じだ。声出して喚けば、誰か助けてくれると思ってんのか!あ?」  目の前にいるこの男――  あの頃、お金で僕を買った客のひとり。  笑い方も、吐き捨てるような声も、あのとき と何一つ変わってなかった。 「俺ぁな、お前みてぇなきったねぇガキのせいで人生終わろうとしてんだよッ!!」  握った拳が、車内の座席を殴る。 「俺から全て奪ってんじゃねぇかよッ!カスがッ!!」 革が裂けて、中の綿が飛び出した。運転手は何も言わない。ただ冷めた目でバックミラー越しにこっちを見てた。 「あ!なぁ、知ってるか? お前んとこで飼ってるガキ――あいつ人殺しなんだよ。笑えるよなぁぁ、ははははは……」  なにを言ってるのか、よくわかんなかった。 月美くんが…………人殺し…………? 「どっかの工場で生まれてよ、人間殺すためだけに育てられた化け物なんだぜぇ?」 わかんない……なにを、言ってるのか……月美くんと……月美くんのあの優しい笑顔と……その言葉が、ちっとも結びつかない…… 「あのガキ、ずっとお前の周りうろちょろしてたろ?」 ずっと……?そういえば……はじめて、会った日も……月美くん……お水を汲むためでもないのに……あそこに…… 「あのガキに狙われたら最後だ。俺の親父も、 あいつの仲間の“組織”のやつらに潰された。 全部、全部お前と、あの忌々しい赤い目のせいでッ……!」 これ以上、聞きたくなかった。耳を塞いだ。 でも言葉は続いた。 「お前と、あのガキがいたせいで、俺ぁ地位も 名誉も、全部無くしたんだ!だからなぁ……まずは身体中に、また“新しいお土産”つけてやるよ。 あのときみたいになぁ……」 男はポケットからナイフを取り出した。刃が鈍く光ってる。 「っ、やっ!やめてっ!!」 「泣け泣け、叫べよ。懐かしの地下だぁ。 昔の拷問部屋、まだ潰してねぇんだわ。 あそこに連れてって、たっぷり時間かけて嬲ってやる。たまんねぇよなぁ……嬲って、犯して、嬲って、犯して……そのあたぁ殺してやるよ、 “道連れ”ってやつだ。へへへひへへへへ……」  やだ……やだ……やだ……!  怖い……痛い……怖い……  あったかい手のひら、甘いコーヒー、微笑んでくれたキレイな瞳。すぐそこにあった幸せが、 どんどん遠ざかっていく――    でもそのとき。   “ギィ……”って、車が軋む音がした。  「……?」  男の眉がひそんで。運転手が前のめりにフロントガラスを見上げた。    その瞬間だった。  ガシャン!!っていう金属が潰れる音。  天井が、いきなり“上”から凹んだ。 全体が揺れて、運転席が、まるでペシャンコに 潰されたみたいに歪んだ。  「な、なんだぁぁ……!?」  車内に響く悲鳴。 目の前の男が、恐怖に顔を引きつらせる。 ――潰れた車の前の方から、空気が変わっていくような気がした。  冷たい、けど、なんだか安心する気配。  「……え?」  息をのむ。  けれど、わかんない。  何が起きたのかなんて、何も。  ただ――ほんの、ほんの少しだけ。  胸の奥に、かすかな予感が灯った。  そんなはず、ないって思うのに。    それでもほんの一瞬、僕の頭に浮かんだのは 月美くんの……赤い瞳……。  

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