37 / 173
第三十七話
中心市街地の真ん中。
普段は賑わっているはずの街中に、人の気配は
一切ない。
わずかな風が紙袋を転がす音だけが、
アスファルトに虚しく響いていた。
愁は、潰れた黒いバンの運転席から離れた
位置に立っていた。
着地の瞬間に伝わった衝撃は、想像以上に足腰に響いている。
全力で、限界以上の速度で、この車を追い続けていた。肺は焼けるように熱く、喉の奥は血の味で満ちている。
息を整えようとするが、肺が悲鳴を上げている。ふらつく視界、軽いめまい。
それでも、立ち止まっていられるはずがない。
「涼、風さん……」
わずかに震える声で名を呼びながら、愁は車へと近づく。
その瞬間、スライドドアが開いた――
中から、あの男が現れた。日焼けした肌に盛り上がった筋肉。片手には拳銃。もう一方の腕で、葵の体を引きずるように抱え込んでいる。
「ッ……」
葵の首元には、鋭いナイフが添えられていた。
彼の頬には泣きそうな光が滲み、唇はきつく結ばれている。
「……ガキぃ……動くなよぉぉ……!!」
男が低く唸る。
憎しみに濁ったその声は、握ったナイフのように鋭く、そして狂気を含んでいた。
「その一歩で、こいつの喉を掻っ切るッ!
てめえ、あんだけ派手に動けりゃ、やっぱ人間じゃねえんだな……っ!」
愁の足が止まる。
「ああ、見ろよ葵ぃ、あのガキは化けもんだ! あんなのと一緒にいたら、てめえも終わりだ!!」
けれど、表情は変わらない。微かに肩が上下し、呼吸の乱れが残っているだけ。
「……俺に何かすれば、こいつの命はない。
いいか、てめえが近づくたびに、ナイフは深く入っていく。さあ、どうするよぉ……ッ!!」
言葉の最後に合わせて、男は愁に向けて引き金を引いた。
乾いた銃声。
愁はわずかに動き、弾丸が肩をかすめた。
焼けつく痛みが走る。
次の一発は脚を掠めた。膝が一瞬、地面に崩れかける。
だが――愁は、表情を歪めもしなかった。
「……ごめん、なさい……涼風さん……」
その一言を、小さく呟いた。
目が合う。愁の赤い瞳には、痛みではなく、
深い悔恨と優しさが滲んでいた。
「全部……最初から……話すべきでした……」
次の瞬間。
風が鳴った。
愁の姿が男の視界から掻き消えたかと思えば、衝撃が響いた。
まるで時を超えたかのように一瞬で距離を詰め、男の手からナイフも銃も一瞬で弾き飛ばした。
葵を抱え込んでいた腕が引き剥がされ、男の
巨体が地面へと叩きつけられた。
一撃だった。
地面に転がった男は意識を失い、動かない。
周囲には誰もいない。
静寂だけが、ふたたび街を包み込んだ。
葵は地面にへたり込み、震えていた。
愁は葵のもとへと歩み寄る。肩と脚からは血が滲んでいる。
「っ……大丈夫ですか……?」
静かに、手を差し伸べる。
けれど――その手を見た葵の身体が、わずかに震えた。
怯えていた。
その目に、愁が"化け物"として映っているのだと、痛いほど思ってしまった。
「ぁ……」
愁は、手を引っ込める。
そっと目を伏せて、ぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい。迷惑ばかりかけて……怖がらせて……ぁ、の……ケガとかあったら……大変なので救急車……呼んでおきますから……」
震えそうになる声を、懸命に抑える。
それでも、声の奥に滲む痛みと後悔は、隠せなかった。
愁は、ゆっくりと背を向けた。
今すぐこの場から、立ち去らなければ。
これ以上、葵に恐怖を与える前に。
歩き出そうとした、その瞬間――
「ッ……」
背中に、あたたかな重み。
「……涼、風……さん……?」
後ろから、ぎゅっと、両腕で抱きしめられていた。
葵の顔が、愁の背にうずめられている。
あたたかくて、震えていて、でも――
そこにあったのは、たしかに――
ともだちにシェアしよう!

