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第三十八話
すべての痛みをそっと包む夜。
二人は、愁の手配した車で、古びたアパートの
一室へと向かった。
愁が偽装のために用意していた部屋。葵の監視
拠点――その場所には、人の気配よりも静けさが
満ちていた。
部屋の中はがらんとして、シングルサイズの
パイプベッドがぽつんとひとつ。その脇の簡易
キッチンには、封を切っていない軍用の携帯食料が数個と、応急処置用の救急キットが置かれているだけだった。
愁が無言でベッドに腰を下ろすと、葵は迷う
ことなく隣に膝をついた。
おそるおそる、でもその手つきにはなにか想いが宿っていた。
そっと、愁の上着に手をかけて脱がせると、
現れた傷に小さく息をのむ。
何も言わず、でも目が真剣で――
慣れない手つきで消毒液を含ませた綿をそっと当てた瞬間、乾いた血の奥で傷がひりつき、愁は微かに息を止めた。
「......っ、くっ」
「ご、ごめんっ......!」
けれど葵の手が、やさしくそこに添えられたまま離れない。
「大丈夫……大丈夫です……」
痛みよりも、その温度が心に沁みた。
静かな時間が流れる。
やがて、愁が、ぽつりと声を落とした。
「……ごめんなさい」
葵は黙ったまま、手当てを続けている。
「……怒って、ますよね……」
返事はない。けれど、その沈黙がなにより胸に刺さった。
「俺……ずっと、涼風さんを騙してましたから……」
葵の手が一瞬止まった気がして、愁は小さく息を飲んだ。
「……好きって、言ってくれたのも……それも、
全部……ウソ……?」
葵の声は、かすかに震えていた。
愁は、喉がきゅっと締めつけられるように痛んだ
けれど、そっと首を横に振った。
「違います……それは……ほんと……本当、なんです……信じて、もらえないかもです……けど」
耳まで真っ赤にして、目を伏せながらも、
まっすぐに心だけは向けて。
「俺……本気で、涼風さんのこと、好きなんです。きっと、誰よりも」
葵はその言葉を聞いて、ふっと小さく笑った。
「......だったら、いいよ」
その一言だけで、愁の胸の奥がほどけていく気がした。
けれど、どうしても気になっていたこともあった。
「……ぁ……でも、俺のこと……怖くないんですか……?」
「ん……なんで?」
「その、さっき手を……掴んでくれなかったので……」
「あれは……」
葵は、ちょっとだけ視線を逸らして、ぽつりと
呟いた。
「......腰が抜けて、動けなかったんだもん…… あんなこと、あったわけだったし......」
その言葉に、思わず愁の唇がほころぶ。
ふっと小さな笑いがこぼれて、葵もつられるように笑っていた。
お互いに、まだ不器用だけれど。
それでも、確かに心は寄り添っていて、そして、葵がぽつりと呟いた。
「……ね、ねぇ……抱っこ、してくれる……?」
「……え?」
愁は思わず聞き返す。葵は恥ずかしさに頬を
染め、目を伏せたまま、か細く続けた。
「……すごく、怖かったんだ。今も、まだ……
胸がドキドキしてて……」
その声は小さくて、でも懸命だった。
愁の胸に、きゅっと何かが響く。
「……お願い。落ち着くまででいいから……ちょっとだけで、いいから……」
愁は黙って数秒、葵を見つめていた。
そしてそっと微笑んで、ほんの少し腕を開いた。
「ちょっとだけじゃなくても、いいんですよ」
その声は優しく、どこまでもあたたかい。
葵はその言葉に、くすぐったそうに笑ってから、小さくうなずいた。
次の瞬間、ふわりと愁の腕の中に収まる葵。
愁は大事なものを扱うように、静かに、でも
しっかりと包み込む。
葵は愁の胸に顔をうずめて、目を閉じた。
鼓動の音が、やさしく耳に届く。
震えていた心が、ひとつずつ解けていく。
そして、言葉よりもずっと深く――想いが、
静かに重なっていく。
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