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第三十九話
黄昏に包まれる街――九月の風が高層ビルの屋上を静かに吹き抜ける。
その風の中に立つ男の姿は、まるで舞台の幕が上がる直前の主役のようだった。
朱を含んだ艶やかな前髪が、深い橙色を受けて妖しく揺れる。
身体にぴたりと沿うワインレッドのスーツは、絹のような光沢を帯び、男の細身の肢体を際立たせていた。
指には黒革の手袋。白鞘に納めた小太刀を左手に携え。ヒールをコツ、コツと鳴らしながら、
彼――九条 京之介は、ゆるやかに屋上の縁へと歩を進める。
「んふふ……♪やっぱり放置してて正解やったわぁ」
艶を含んだ笑声とともに、紅をひいたような唇がほころぶ。
京之介の瞳は、遥か下――愁と葵が黒塗りの車に
乗り去る様を愉しげに見送り、その余韻だけが
街に、ひらりと揺れて残っていた。
「可愛い愁ちゃんが……やっと、自分の大切な
もんと……ろまんす……うふふふふふ♪」
その声には、たしかな慈しみが滲んでいた。
兄のように愁を見守ってきた彼にとって、今の
光景は何よりも嬉しいものだったのだ。
だが。
「……あらあら?」
その唇が、微かに吊り上がる。
夕闇の中、地面にのたうち回る影。
運転席付近がぐしゃりと潰れたハイエースの
傍で、何とか生き残っていた男が、一人這いずっていた。
「んん~……まだ動いとるなぁ、あれ」
京之介は、屋上の縁に立ち、視線を落とした。
「ふふ、“本物”があれなら、“偽物”が無様なんも納得やわぁ……♪」
わざと見逃した――その判断が、今の出来事の
原因になったことは、京之介自身が一番理解している。だが、それで愁が誰かを本気で守ろうと
する力を得たのなら、それは「必要な痛み」だったのだ。
長いまつ毛が影を落とす瞳が、薄く細められる。
「ふふ……あとは、幕引きやなぁ」
そして、彼は躊躇なく、ビルの縁から身を躍らせた。
その瞬間、ワインレッドのスーツが、空に紅の軌跡を描いた。
ヒールの音は消え、彼の身体はまるで重力さえ拒むように、ふわりと落ちてゆく。
まるで赤い蝶のように。舞い降りる殺意が、
静寂を切り裂く。
地面に降り立ったその姿は、羽ばたくように美しく――そして、残酷だった。
男が気づくよりも先に、京之介の小太刀が、その肩へと深く突き立った。
「が、ぁ……っ!?」
呻き声をあげ、地に伏す男。京之介はくるりと片足を軸に身を翻し、血の滴る刃を抜く。
「ん~、やっぱり……“偽物”と違って、
ちゃんと“痛み”に反応するんやぁ。」
男が震える声で懇願する。
「……た、助け……ひぇくれ……お、親ひが、全部
やったんらっ!だかりゃ……」
震える声も、涙に濡れた瞳も、
九条 京之介の前では、何の価値も持たなかった。
「んふふ……♪子ぉは親に似る、その言葉、
もう耳タコやわぁ……」
薄紅の唇が、愉しげに歪む。
「それにうち、見た目も性格も不細工なもんに同情いう感情、持ち合わせてへんねん」
刃が静かに、舞うように閃き――
優雅に、的確に、容赦なく男の命を粉々に
刻んでいった。
――すべてが、静かに終わる。
残されたのは、夜の気配と、微かな血の香り。
京之介は静かに刃を布で拭い、再び空を見上げた。
「んふふ、それにしても……複製だけやのうて、
うちらの技術も……どこまで盗まれてしもて、
どこまで進化したんやろなぁ……」
京之介は、夕月へ向けてゆったりと片手を掲げるように伸ばす。
「んふふふふ♪また、楽しみがひとつ増えたわぁ♪」
その笑みは、これから訪れる夜の闇よりも
妖しく、優雅に微笑む月よりも冷たかった――
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