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第四十一話
愁は、話せる範囲で自分の正体を葵に打ち明けた。
自分が普通の人間ではなく、“戦闘特化体”と
呼ばれる存在であること。
銃弾で撃たれたはずの傷が、翌朝には痕ひとつなく消えていたのを見せると――
「すごっ!マー○ル!?D○!?」
「ぇ……違……」
「ねぇ、月美くん、飛べたりはしないの?」
葵は目をきらっきらに輝かせて、ヒーローを目の前にした子どもみたいに騒ぎ始めた。
畏怖も引きもせず、むしろ大はしゃぎ。
……愁はちょっとだけ拍子抜けしながら、頬の力が緩むのを止められなかった。
「……いえ、跳躍は出来ますけど……飛べは、
しないと思いますよ……たぶん」
「そっかぁ……じゃあ……手首からクモの糸とか……」
「出ません、絶対に。」
どうやら、秘密兵器もヒーロー扱いされるらしい。
愁の中で、葵という存在がまた少し特別になった
。
――そして
愁が拐われた葵を助け出す為に街で起きた事件から、もう八日が過ぎた。
ネットニュースでは、真実を覆い隠すように――
「広範囲にガス漏れが発生、原因は不明」
などと見出しが踊り、さらに
「大企業の経営者親子が海外で交通事故に遭い、死亡」
などと、虚構が事実のように報じられていた。
現実は、あまりに異なる。
葵の部屋の壊された扉や、踏み荒らされた
家具、割られたカップは、翌朝には新品に取り替えられていた。
それもすべて、組織による迅速な隠蔽工作だ。
けれど、それでも葵は、どこか怯えていた。
夜が深くなるほどに。
静けさが増すほどに。
だから、今は愁の用意した偽装住所で、
二人一緒に暮らしている。
葵の寝息を聞きながら眠れるようになったことに、愁は胸の奥でそっと安堵していた。
今朝も――真っ赤なボディを夕陽のように煌めかせるS15シルビアで、二人は山道を登ってきた。
喫茶店「日向」は、変わらず木々に囲まれた静寂のなかで、今日も小さく、けれど温かく開店の
時を待っていた――
そして夕映えが森を包み、空の薄紅が静かに
群青へと移ろう頃。木々の影が長く伸びて、
喫茶店「日向」は、今日もそっと扉を閉じた。
昼間の賑わいはまるで夢のように去っていたが、それは確かな現実だった。
今日もまた、SNSで話題になったあの日以来、変わらず連日満席状態が続いていた。
テーブル席もカウンター席も、写真を撮る若い女性客たちの笑顔で埋まり、スマートフォンの
シャッター音が止むことはなかった。
「えっ、店員さんめっちゃカッコいい……写真通り、てか、それ以上……」 「声もいいし、笑わなくてもかっこいいとかズルい……」 「え、注文ってどこで取ってもらえばいいの? すみません〜っ♡」
――視線、視線、視線。
愁の背中に常に突き刺さるような注目が集まる
なか、彼はただ静かに仕事をこなしていた。
注文を正確に聞き取り、厨房にいる葵へ伝え、
皿を下げ、カップを洗い、会計をこなす。
一切の無駄も迷いもない所作。
だがその眼差しは、いつものような冷静さとは
どこか違っていた。
何かを――探していた。
視線の隅、耳の裏、指先の感覚にまで神経を張り巡らせながら、愁はずっと気にしていた。
……まだ、ない
ポケットに仕舞った携帯端末には、組織からの
連絡は一切なかった。
任務完了と市街地での戦闘の件に関する報告
メールを送ったのは、もう一週間も前だ。
それ以降、応答はない。
通常なら任務終了の二十四時間以内に、何らかの指示か撤退命令があるはずだった。
……なんで、何もない?
かすかな違和感は、やがて胸の奥でざらついた
不安に変わっていた。
もしかすると、俺は――
もう必要とされていないのではないか。
……いや、それどころか、すでに
「排除すべき異物」と見なされているの
かもしれない。
対象との接触が深すぎた。
感情に引かれ、理性を逸脱した行動。
本来の戦闘特化体としての鉄則からも外れている。
色々な仮説が浮かぶたび、喉の奥に冷たい刃物のような予感が過る。
だが、そんな素振りは誰にも見せず、愁はただ黙々と働き続けた。
閉店時間になっても、動揺は消えなかった。
笑顔で手を振っていく客たちの背を見送り、看板を「CLOSED」に裏返したあと、愁は静かに扉を閉めた。
鍵がかかる音が、やけに大きく響いた。
ひと通りの片付けを終え、カウンター席にひとり腰を下ろす。
シャツの袖をまくり上げ、ふと背凭れに寄りかかった愁は、重たい息をついた。
店内はすっかり静まり返っていた。
聞こえるのは時計の秒針と、客室にほのかに流れる有線のジャズピアノの音だけ。
手元の携帯端末を開く。通知は――ない。
「……どうして、返信がない……?」
ぽつりと、独り言のように愁が呟いた。
「気になるん?」
――ふいに、艶やかな京言葉が耳元を撫でた。
「それは……ッ!?」
返しかけた瞬間、愁の肩がビクリと跳ねた。
気づけば、隣のカウンター席に、九条京之介が
静かに座っていた。
まるで最初からそこにいたかのような自然さで。
朱を含んだ艶やかなボブカットは、照明の光を
受けてまるで血のように妖しく煌めき、
ワインレッドのスーツに長い足を組み、片肘を
カウンターに置く姿は、異様なまでに洗練されていた。
その唇の端がゆっくりと持ち上がる。
「んふふふふふ……♡
愁ちゃんのそないな顔、初めてやわぁ……
可愛らし……んふふ♪」
――笑っていた。
いつものように、柔らかく、しかしどこか底知れない含みを持って。
京之介の眼差しは、まるで愁の脈拍さえ読み取っているかのように、じわりと胸の奥を覗き込んでくる。
愁は、冷静さを装いながら、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
だが、その掌には、わずかに汗がにじんでいた。
京之介は、今日に限って小太刀を携えていなかった。
それがかえって、異様な気配を濃くしていた。
――なぜ、ここに……?
まるで「返答がない理由」を知っているかのように。
まるで「もう、それを告げに来た」とでも言いたげに。
京之介の視線は、妖しくも優雅に、愁の奥底を射抜いていた。
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