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第四十二話

 どれほどの時間が流れただろう。 沈黙のなか、京之介の視線だけが、愁の頬を なぞるように静かに泳いでいた。  まるで次の手を探っているように思えたが―― 突如として、京之介が動いた。 「……え?」  気づけば、京之介は椅子からすっと腰を上げ、愁の前へと回り込む。 そしてそのまま、何の躊躇もなく、愁の膝の上に、ふわりと腰を下ろした。  しかも――正面から、向かい合う形で。 「あの……京之介さっ……!?」  思わず立ち上がろうとする愁の肩を、京之介は両手で優しく押しとどめた。 「久しぶりやなぁ、愁ちゃん♪」 「ちゃんと定時連絡とか、完了の報告とかして……」 「んふふふ♪あの恋愛相談やろぉ?お兄ちゃん、 愁ちゃんの成長感じれて嬉しかったんやわぁ」  目の前、数十センチもない至近距離。 艶やかなボブカットがふわりと揺れ、甘く花の ような香水の香りが、愁の鼻腔を撫でる。 「れッ……恋愛相談って……」 「やからぁ、成長した愁ちゃんに直接愁会いとうて、こうして愁ちゃんの働く喫茶店に来てみたんよ♡」  愁の頬が、まるで湯気でも出そうなほど真っ赤に染まった。 あまりに近すぎる距離、あまりに妖艶な視線。 それなのに京之介の笑みは、どこか少年のような無邪気さすら滲ませていて―― 「二年ぶり? 三年ぶり? えぇ、どっちでもええわぁ……ちょっと大きなった? 肩幅もやけど、こう……」  まるで子犬でも撫でるように、京之介は愁の肩を触り、二の腕に触れ、胸元まで―― 「ちょ、や……ぁ……きょ、京之介さ……ん……ッ」 「昔は、お兄ちゃんって呼んでくれとったのに、寂しいなぁ」 「む、昔から、こういう距離感、恥ずかし、い……って……」  困惑しつつも、愁の口調はどこか懐かしさを含んでいた。 思い出した――この人、昔からこうだった…… 上司でありながら兄のようで、そして時に母のようでもある、距離感崩壊型の自由人。  けれど、今だけは。 「んふふふ♡ちょーい昔までは一緒にお風呂入っとったやんか、今さらなにを恥ずかしがっとるん?」 ……近すぎる……  真っ赤になった顔を逸らすこともできず、愁は不器用に口を開いた。 「ッ……そ、それより、俺に何か通達事項があるんでしょう……?」 「ん?あぁ、そういうたら……」 「はぁ……俺の問題の件で、処罰か……処分…… とか」  言葉の最後は、少しかすれていた。 自分の“感情”で行動したことが、組織にとってどれだけのリスクになるのか、愁は誰よりも理解していた。  だが、京之介は――吹き出すように笑った。 「んふふっ、ちゃうちゃう。アホやなぁ、言うたやん、なんも問題ないよ、ほんまそういう真面目なとこ可愛いわぁ……♡」  京之介は、ぽん、と愁の胸元を軽く叩いてから、くすぐるような笑みを浮かべた。 「愁ちゃんの次の任地、こーこってうち伝えに来たんやわぁ」 「ここって……この日向ですか……?」 「そ……こっちでな、ひょーっとしたら大きな ことが起こるかもしれへん。そのときのために、 常にこっちで待機してる者が、最低ふたりは必要なんよ。」 「二人って、京之介さんと、ですか?」 「んふふ、愁ちゃんもそれが一番嬉しいやろけど、うちは野暮用多いから、別の子が来んで」 「せやから、あんたはここに残って、任務続行 ってことやね」 「では、その一人はいつ着任されるんです?」 「そやねぇ。……もうちょっとで来るんちゃうかなぁ?」  にんまり笑う京之介は、依然として愁の膝の上に座ったまま、視線をそらす気配すらなかった。  愁も、ようやく安心からか、体の力が抜ける。  ――と、そのとき。 「…………え」  不意に背後で、何かが崩れるような音がした。  二人が顔を向けると、そこには葵が立ち尽くしていた。 手にしていたタオルを落とし、目をぱちくりとさせたまま――ゆっくりと、しゃがみ込んでいく。 「…………浮気……だよね……? つきあって…… 一週間で…………浮気……?」  ぺたん、と床に座り込み、放心したまま、 ぽつりぽつりと独り言のように呟く葵。 「ち、ちがっ、いやこれはっ……!」 「んふふふふ……♡ 可愛い子やなぁ♪……でもまあ、そらそやわなぁ?」 「ちょッ……京之介さん!?」  動揺する愁の膝の上で、京之介はますます楽しそうに笑いながら、 そのまま愁の胸元にこてんと頬を預けて―― 「……浮気相手がこんな美形やったら、泣いてまうわぁ♡」  ――満面の笑みで、トドメを刺してきたのだった。

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