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第五十話
朝の「日向」は、開店前の静けさの中で息を
潜めてた。
ガラス越しに覗くと外には、もう待ちきれないお客さんの行列ができているのに、厨房の中だけは別世界みたいに穏やかで、二人だけの時間が
流れてた。
「ねぇ、月見くん……ちょっと、こっち来て」
「はい、すぐに。」
開店準備を終わらせた僕は、月見くんを厨房に招き入れる。
「今日も、うんと忙しいだろうから……その前に、元気を……僕にちょうだい……」
囁くように言って、背伸びをして唇を差し出す。
「はい……」
ふっと小さく笑った愁くんが、僕の頬に温かい
手のひらを添えてくれる。
その手は指先まで優しくて、でもしっかりと包み込む力強さがあって
「ん……」
そして、柔らかく触れるだけのキス――最初は軽いはずなのに、じわって熱が広がって、背筋が
ぞくぞくって震える。
「ふ……ぁ……」
すぐに唇が離されて……見たら、月見くんは息をちょっとだけ乱してて、顔は耳のあたりまで
ほんのり赤い。
僕は思わず首を傾げて「……どうしたの?」って聞いたら、月見くんは、ちょっとだけ視線を
逸らして
「……えっと……これ以上すると、その……変に、
なりそうで……」
言葉の端がちょっと震えていて、それが妙に胸をくすぐる。
くすって笑いそうになるのを堪えていたら、不意に、今度は月見くんの方から、ゆっくりと唇を
重ねてくれる。
とっても優しい口づけは、ちょっとずつ深く
なって、舌先が触れたら全身が甘く痺れる。
息継ぎで離れた唇の間に、細い糸がきらっと
光って――
「……こんなキスしたら、続き……したくなっちゃうじゃないか……もぉ……」
冗談っぽく言えたつもりが、声が少し掠れてしまう。
月見くんは一瞬目を丸くして、それから視線を
落とし
「……ぁ、葵さんが……可愛いから……」
って、ほんと小さな声でこぼした。
――葵さんって……♡♡♡
下の名を呼ばれただけで、僕の呼吸が浅くなってる。今まで苗字でしか呼ばれなかったのに……
こんなふうに名前を呼ばれたら、もうだめ。
「ねぇ……今日はお店、お昼からにしちゃおうか……それで、ちょっと休憩室で……」
一割冗談、九割本気で言いかけたら、月見くんは慌てて「だ、だめです」と首を振った。
でも、すれ違う瞬間に耳元で、
「……終わったら……少し、いいですか」
と囁かれて、背筋をぞくっとさせられる。
そして扉の前で振り返った月見くんは、
少し照れながらも笑って
「頑張りましょう、葵さん」
って言ってくれた。
……その笑顔の破壊力があまりに強くて、僕は
厨房にひとり残されながら思った。
――夕方までなんて、絶ッ対我慢できない。
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