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第五十一話
喫茶店「日向」の昼下がりは、今日も騒がしかった。愁はシャツの袖を軽くまくり、ベストの
前を整えながら、テーブルからテーブルへと無駄なく動いていく。
「ありがとうございます。またどうぞ」
そう微笑んで会釈するだけで、目の前の女性客が耳まで真っ赤になる。
愁にとっては、ただ接客の基本を守っているだけだ。だが、相手は勝手に胸を押さえたり、スマホを握りしめたり、場合によっては連絡先を書いたメモを差し出してきたりする。
「申し訳ありません。お客様と個人的なやり取りはできませんので」
愁はいつもそう返し、丁寧にメモを返す。
それでも相手は「え、優しい…」と呟いて帰っていく。
自分がどう扱われているかなど、愁は気にも留めない。
ただ注文を受け、運び、笑顔を向ける――それだけ。
しかし、忙しい合間にふと手が空けば、自然と
脳裏に浮かぶのは葵のことだった。
「ふふ……♪」
……今朝も……とっても、可愛かった……
朝起きたてで、柔らかく笑う顔。朝食のドーナツをかじる時の幸せそうな目……。
……けど……
そこまではいい。だが、一度、あの夜の口づけや、葵の肌の温もりを思い出してしまえば、思考は勝手に深みに沈んでいき、頬の温度がじわりと上がってしまう。
……思い出すだけで……なんだか変な気分になる……
さっきだって無意識に、葵さんって呼んだりして……よかったのかな……
自分を戒めても、顔の熱は引かない。そんな微妙な表情をしているせいか、カウンター越しの女性客が「今の表情…!」とざわめき、視線がまた集まる。
そんな時間が続く中、午後三時。客の数がやや落ち着きかけた頃――。
「……愁くん!♡ 久しぶりぃぃッ!!」
聞き慣れた大声に、愁は手を止めた。
振り向けば、私服姿の凛が扉の前に立っている。茶色の猫っ毛を揺らし、少年のような笑顔を浮かべて。
「……なっ!?」
……んで、ここに凛が……
驚き半分、残りの半分で警戒した瞬間、凛は一歩踏み込み――駆けて、そのまま愁に抱きついた。
「っ……凛、どうして……ッ」
喋り終える前に愁は黒ネクタイをぐいっと掴まれ、距離がゼロになる。
凛の腕は細身だが力強く、逃げ場を与えてくれない。至近距離で見上げられれば、男同士であっても妙に空気が熱くなる。
「どうしてって……愁くんに会いたくて、ボク、その為に仕事頑張ってたんだからね」
その光景に、周囲の女性客から悲鳴にも似た歓声が一斉に上がった。
「キャーッ!」「やばい…尊い…!」
スマホを構える者、手を合わせる者、口元を押さえる者——カフェの空気は一瞬で異様な盛り上がりに変わった。
「ッ!?……そ、そう、ありがとう……嬉しいけど、今、仕事中だから……ね?」
低く囁いても、凛は笑って耳元で、
「嬉しいの愁くん……♡それにしても、やっぱりなんでも似合うね♡この格好、とぉっても素敵だよ……♡」
と甘ったるく言う。背筋を撫でられたような感覚に、愁はほんのわずか眉を寄せた。
と、その時――厨房のドアが勢いよく開く。
「……年下!? 今度は年下なの……!?」
包丁を手にした葵が立っていた。
歓声の中心で抱擁している二人を見た瞬間、葵の目がぎらりと光る。
「月見くん……説明して……」
距離を詰められ、包丁の刃先がきらりと揺れる。
……また、だ……
愁は、つい先日も似たような修羅場があったのを思い出し、深く息を吐いた。
今日も夜は、静かに終われそうにない。
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