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第五十二話

 「日向」営業終了後の客室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。  カウンター席には並んで座る愁と凛。 凛は、まるで恋人が甘えるように愁の肩へ すり寄り、その指先は彼の腕、背中、腰……時には太腿の上までも平然と撫でてくる。  その指先は妙に柔らかく、温かいくせに、 やたらと際どい部分を押さえてくるから、愁は 軽く眉間を寄せた。 「……凛……少し、近くない……?」 「え〜?スキンシップだよぉ……ふふ♪」 と、耳元に吐息混じりの声を滑らせる凛。 頬をかすめる温もりが、微かにくすぐったくて……それが余計にややこしい。  カウンターの向こう側には葵が立っていた。  包丁こそ手にしていないが、その眼差しは明らかに刃物だった。 じりじりと肌を刺すような視線。理由は――言わずもがな、だ。 愁は、あくまで淡々と尋ねた。 「……それで、凛。来た理由は何……?」 凛はにこりと笑い、猫のような目を細めて言った。 「ボクと愁くん、前みたいにデュオに設定されたんだよ♪京兄ちゃんから聞いてない?」 その言葉に、愁は記憶を辿る。そういえば――京之介から「もう一人来る」とだけ聞かされていた。 「ん~でもデュオって言うより、カップルって 響きの方が良いよね〜♡これから、ず〜っと一緒なんだからさ♡ 嬉しいでしょ、愁くん♡」 その甘ったるい声音が耳に絡みつく。 「は……?」 反射的に葵の声の殺気が一段階上がったのを、 背筋で感じた。  愁は即座に説明に入る。 「ぁ……、あの、葵さん。この子は凛って言います」 「……それで?」 「ぅ……俺と似たような人種でして。」 「……ふーん……」 「前は一緒に行動していたんですけど、最近は 海外の方で生活してて……会えていませんでしたけど苗字も同じで……兄弟です」 「兄弟?」 「そ、そう兄弟です……ね、凛?」  葵の表情が、ほんの少し和らいだ。  愁は胸の奥でほっと息をつく。――が、それは 一瞬だった。 「え〜でも、ほら、ボクら兄弟っていうより、 ほぼ恋人でしょ♡」  凛が無邪気に爆弾を投下する。 「いつも一緒にお仕事してたし〜、お風呂も一緒に入ってたし、ずっ〜と同じベッドで寝てたし♡」 ……空気が、再び凍りついた。 葵の目が再び細くなり、その奥で何かがカチリと音を立てて外れた気がした。 ……あぁ……凛……水中で、抱っこしてあげたいな……泡が出なくなるまで……  しかし、当の本人はそんな殺気にも気づかず、 ケロリとした顔で続ける。 「あ!ボクまだ少し仕事が残ってるから、愁くん寂しいだろうけど、お暇するね。」 そう言って、凛はふっと愁に顔を寄せた。 距離は一瞬でゼロに近づき、温い吐息が唇の縁をなぞる――。 そして、かすめるようなキスの気配を残して、凛はふわりと席を立った。 「また、すぐ会えるからね愁くん、楽しみにしててね♡」 ドアが閉まる音と同時に、残されたのは葵と愁。 ……そして、言葉にできない圧力だけが、その場を満たした。 愁は、これから訪れるであろう未来を、はっきりと幻視していた。

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