53 / 173

第五十三話

 営業終了後の「日向」。 “凛”って子が帰って、やっと静かになった―― はずなのに、僕の心の中は全然静まらなかった。 だって、あの子……兄弟みたいな関係とか言いながら、カウンターで愁くんの肩にぴったり寄り添って、手でペタペタ愁くんに触って……あげくの果てには唇の近くにキスまで。 ……あれは兄弟じゃなくて、もう恋人未満くらいの距離感だよね……?  しかも、今夜は……本当なら愁くんと、いっぱいキスして、甘く過ごすはずだったのに。 僕の愁くんが、他の誰かに触られてるなんて…… 正直、嫉妬でお腹の中がぐつぐつしてる。 愁くんも、そんな僕の空気を察してるのか、帰り道はほとんど話しかけてこない。  わかってる、愁くんは悪くない。全部わかってるけど……どうしても素直に笑えない自分がまたヤになる。 そのせいか、僕のシルビィも気分を反映したみたいに、やたらアクセルが重くなる。 峠を下るカーブでは、タイヤが路面を鳴かせて、 後輪がすべる感覚がハンドルから伝わってくる。 「……!」って助手席の愁くんが軽く肩をすくめるのを横目に、僕はギアを落として次のコーナーへ。 ……うん、完全にドリフトだ。八割は自分の 不機嫌、二割は腕の自慢。  そして、愁くんのアパートに帰宅。 最初ここに来たときは、シングルのパイプベッドと小さな冷蔵庫しかなかった部屋。  でも、今は違う。 僕が前の部屋から持ってきた大きめのテレビと テーブル、その前に二人で買いに行った、 ふかふかの三人掛けソファ。 壁際の棚には、僕が集めたDVDや漫画がぎっしり並んでる。 コーヒーカップも、毛布も……お洒落な観葉植物まで……気づけばこの部屋はもう「僕と愁くんの部屋」になってた。  でも……今日は、いつもみたいに隣に座って他愛ない話をする気分じゃない。 一緒にいても、愁くんが僕を気遣って、話しかけづらそうにしてるのがわかるから。 「……シャワー浴びてくるね」 そう言って脱衣室へ向かおうと背を向けた瞬間――キュッて、やさしく手が握られた。 振り返ると、愁くんが少し俯きながら、 「……ごめんなさい」 って、小さな声で。 ……なんで謝るの、君は何も悪くないのに。 それなのに、年下なのに、こんなふうに気を遣わせて。 「僕こそ、ごめん……」 言葉が勝手に出た。 「僕、愁くんのこと……大好きで……でも、大好きだから、君が他の誰かとあんなに仲良くしてるとこ見ちゃうと……つい、イライラしちゃって……」 自分で言ってて、顔が熱くなる。大人げない。完全に嫉妬。  でも愁くんは、そんな僕を見て、ふっと目を丸くしてから―― 「……葵さんが、下の名前で……」 なんて、頬を赤くして呟く。  そうだ、僕、今自然に「愁くん」って呼んだ。 いっつも「月見くん」って呼んでたから…… でも、先に「葵さん」って呼んで、ドキドキさせたのは君の方なのに…… ……もう耳まで真っ赤になるなんて……本当に…… かわいい。 「葵さん……嬉しいですね……ただ名前で呼ばれただけで……こんな気持ちになるなんて」 胸を押さえながら言うその姿が、もう、反則級に愛しい。 僕も、今朝、突然「葵さん」って呼ばれたとき、嬉しくて変な声が出そうになったんだから、 おあいこだ。 「……葵さん」 「……愁くん」 「……葵さん……」 「……愁く、ん……」 気づけば、お互いに何度も名前を呼びあって、どんどん顔が近づいて―― 唇がそっと触れた。やさしく、ゆっくり、溶けるみたいなキス。 唇が離れたあと、ぽーっとしたままの僕は、 思わず口に出してしまった。 「ぁ……ね、愁くん……」 「……なんですか、葵さん……?」 「……僕も、愁くんと……一緒にお風呂入りたいな……」 愁くんの顔が、さらに真っ赤になったのは言うまでもなかった。  シャワーから流れるお湯が、ぱしゃぱしゃと タイルを叩いて。  湯気がもわぁっと立ちこめるユニットバスの中で、僕と愁くんは向かい合っていた。 「……髪、上げてるんですね」  愁くんが、ふっと微笑んだ。 「いつもお風呂あがりにはポニーテールに戻ってるから……こうしてまとめてるの、可愛いって知れるの、嬉しい……」  言われて、つい笑ってしまう。 「な、なんか変だよ……こんなの、ただのお風呂用のまとめ髪なのに」 「でも……可愛いです……」  湯気のせいじゃないはずだ。僕の頬は、じんわり熱くなる。  愁くんの両手が、泡をたっぷり含んで、僕の肩や背中をぬるり、ぬるり……って撫でてく。  泡がすべるたび、くすぐったいような、妙に 気持ちいいような感覚が走る。 「ん……っ……」  変な声が漏れそうで、慌てて口をつぐんだら、愁くんの耳まで真っ赤になっていて。 「……葵さんの笑った顔……キレイ……」  そんなことを真面目に囁くから、もうお湯だけじゃない熱が胸の奥まで広がってしまって――。 「……ばか……そんなことばっか言われたら…… したくなっちゃうじゃないか……」  ぽろっと、口からこぼれる。 「……葵さん……」  震える声に、心臓がきゅっと掴まれたみたいになる。  見つめ合ったまま、唇が重なって、ゆっくり、ゆっくり……舌を絡める。  ぬるん、ぬるん、って泡がはじける音と、くちゅ、くちゅ、って僕らの呼吸が混ざる音。  愁くんの手が、お湯で温まった僕の肌を、柔らかく撫でながら……敏感なとこを優しく擦る。  ……もう、のぼせちゃいそうだ。 「……このままじゃ……ふたりとも茹だっちゃうね……」  僕は、笑いながらおでこを愁くんに軽くこつんと当てた。 「ベッド……いこ……。……いって……しよ」  泡を流しながらそう言うと、愁くんは小さく「……はい」と返してくれた。  僕は彼の手を取って、湯気の向こうへ引っ張った。  シャワーの音が止まると、二人の鼓動だけがやけに大きく響いていた――

ともだちにシェアしよう!