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第七十五話
月明かりに照らされた、とある邸宅の屋根の上で、愁は蹲踞の姿勢を保っていた。
この無駄に豪華な邸宅にも周囲の住宅にも、
人の気配は無い。
そもそも、愁が到着した時点で警報が鳴り、警察が総出で飛んできたであろう厳重なセキュリティ……だったが結局、邸宅に配置されたSP、使用人、標的の妻が息絶えるまで、警報がなる事も
警察が駆けつける事もなかった。
その理由は、愁の身に纏う特殊軽量装甲服――
ただの黒いタイトな戦闘服に見えるこれは、
表面に微細な光沢があり、ナノレベルで
特殊コーティングされた繊維が、あらゆる
熱感知、動き検知、電磁波センサー――
そのどれもをスルーしてしまう。
まるで“存在しないかのように”空間に溶け込む
事が出来る。
着用者の動きは制約なく自然そのまま、音も吸収され、周囲の監視機器には何一つ映らない――
完全なる影。
その完全なる影は鋭い眼差しを、手にしている
一冊の本に落としている。
『甘々、彼氏の事情。』第12巻。
ページをめくる指先は穏やかで、眉間にかすかな笑みさえ浮かぶ。
「ふふふ……♪」
声に柔らかな余韻が混じってきたのは、読んでいる物語の影響だろう。葵が愛してやまないシリーズ。
気付けば愁自身もその世界に惹き込まれていた。
……凄く幸せそう……俺も、葵さんと凛をこんな
風に、いっぱい甘やかしてあげたい……
――葵と、凛と穏やかに暮らす日々は楽しく、
愁は二人の笑顔を見ているだけで、柔らかく
やさしい気持ちでいられる。
だが任務に就く時、その柔らかさは消える。
「……」
ふっと視線を下ろすと、複数のヘッドライトが
邸宅へと近づいていた。
瞬間、愁の瞳は日常から戦場の色へと変わる。
赤い光を帯び、冷たく研ぎ澄まされた殺気が夜気を支配した。
黒塗りの車が三台、邸宅の前に停まる。中央の車両から降り立ったのは、この国の“総理”。
SPたちが周囲を固める。
……標的、それにSP七、秘書一、運転手三。
総数十二、予定通り。問題は、ない……
静かに立ち上がり、腰のホルスターから黒い超硬ナイフを抜き放つ。
体勢を落とし、膝に力を込めた瞬間――
愁は、夜を裂く矢のように跳んだ。
愁の存在に気付いた最初のSPが、何かを言いかけた。
「け、ひょ――」
その声は首ごと宙を舞い、血と共に掻き消えた。
最後尾の車両付近に着地すると同時、
愁はしゃがみ込み、二人目を股下から頭頂まで切り裂く。身体が真っ二つに割れ、骨が軋む音が
夜を汚す。
「ぉ……!」
三人目が声を漏らす。だが声の続きはなく、
愁の刃により喉を掻き斬られ、頭部が転がった。
運転席の男は助けを呼ぶ間もなかった。
投擲されたナイフが防弾ガラスごと頭蓋を砕き、座席を鮮血で染め上げ――
「くそっ!!防御を固めろ!!」
先頭車両のSPたちが防弾カバンを展開する。
しかし愁は躊躇わず、腰からもう一本のナイフを取り出しつつ、足はもう疾風のごとく駆けていた。
両手の刃を閃かせ、二人のSPの首をカバンごと断ち切る。鉄と肉と皮膚が同時に裂ける音が響く。
突破口を開くと、愁は二本の刃を水平に振る。
二人の胴を横一文字に薙ぎ払い、血の幕が夜気に霧を散らす。
「ひ……ごッ!」
秘書は悲鳴を上げる間もなく首を斬り落とされ、崩れる。
「ぶひッ……ひッッ!!?」
その光景を目にした標的は豚の様な悲鳴を上げ、慌てて車へ逃げ込んだ。
だが運転手の頭蓋には穴が空いており、車は動かない。
その間愁は先頭車両のボンネットに跳び乗り、
拳で防弾ガラスを叩き割っていた。
破片が飛び散り、運転手の首が掴まれ
「たしゅゲッ!!」
瞬時に捻り折られる。
そして跳ぶ。最後の標的が醜い虫の様に車両から這い出てきた、その目前に。
「ひっ!?……き、貴様……私が誰か……この国の――」
標的……醜く汚い豚が、言葉を吐きかける。
愁の瞳は冷たく光り
「ゴミの代表……でしょ。」
刃は振り下ろされ、首は転がる。
本当……ニュースで見るたび、気持ち悪かったよ……まぁ、どれも似たようなものだったけど……
目を瞬かせ、まだ死を理解していない脂ぎった顔が愁を映す。彼は迷いなく、その首を踏み潰し。
骨と肉が潰れる鈍い音が、辺りの静寂を深く
した。
ブーツの裏のゴミを地面に擦り付けつつ、
愁は通信端末を取り出し、告げる。
「完了。コードDTD。お掃除と……ぁ……それと
クローン、アレの顔……もう少しどうにか……
出来ませんか、そうですか。えぇ、標的を含め
十二体。位置は……そう……ではお願いします。」
通信を切り、夜空を仰ぐと、美しい月は静かに
輝いていた。
……お月見とか、三人でしたら楽しいかも……
ぁ、たくさんお団子作らないと、二人、ケンカしちゃうかな……。
「ふふ……♪」
口元にかすかな笑み。だが――
その瞬間。
背後の気配。愁は直感で身を翻した。
次の瞬間、空気が断ち切られるような衝撃が背後を薙ぐ。
「っ……!」
振り返ると、フードを被った男。血管の浮いた
両手が異様に歪み、武器そのものの様だった。
……なんだ、あれは……
愁は構えるより早く、拳を右前腕で受け止める。
だが軽装甲が軋み、彼の体は弾き飛ばされた。
――想定外の対象……。
アスファルトに着地し、愁は息を整え――
次の瞬間、彼は地を蹴った。
砕け散るアスファルト。
口角がわずかに上がり、赤い瞳が夜を裂く。
……少し……歯応え、ありそう……。
稲妻のように駆け、男が反応するより早く懐に
入り込み――
みぞおちに左の拳を突き込んだ。
「ぐぅっ――!!」
骨が裂け、肉が破れる音が夜を震わせる。
男の身体は壁に叩きつけられ、呻き声と共に
沈黙した。
愁は再び携帯端末を手に取り、画面を確認しながら報告する。
「コードR……不明、鎮圧完了……」
その声はイレギュラーが発生しても冷静で、
無駄な感情を一切含まない。
愁は倒れたフードの男に近寄り、素早く心音を
確認すると、足で対象を地面に押さえつける。
「……生存確認。即時回収を。」
端末にそう入力した後、淡々と収納し
……通常の拘束具、この男の腕力ならすぐに壊してしまうかも……。
腰背面のカスタムグロック23を二丁取り出し、
左右に構えた。投擲用ナイフより威力は落ちるが、射程は格段に長い。周囲に潜む脅威も、逃さないための備え。
ほどなくして、組織の大型車両が現場に滑り込む。
その車両から降りてきたのは、愁と同型の
軽量装甲服に身を包んだ三人組。
――掃除部隊。
彼らの任務は「存在の抹消」。
無表情のフェイスガードに覆われた顔は、人間味を一切感じさせず、痕跡を残さぬ冷徹さを纏っていた。
そして上空では小型輸送機が旋回し、影のように舞い降りる者がいた。
その存在は「不測の事態」に対応する警護・殲滅専門、ザ・クリーナー。
漆黒の戦闘スーツに狼をモチーフとした無骨な
防毒マスクは、咆哮を思わせるスピーカー加工が
施され、声が低く獣じみて聞こえる。
腰にはハウリングブレードを装着し、
存在そのものが威圧の塊。
そんなクリーナーは愁の位置を確認すると、
大きく手を振る。
その動作は無骨な装甲とマスクの印象とは裏腹に、どこか無邪気さを感じさせた。
……古和美 さん……相変わらずパラシュートなし……変わらないな……
愁も軽く手を返し、足元のフード男を掃除部隊が素早く拘束するのを確認する。
「ご苦労さま。あとは私達が……」
「ありがとうございます。ぁ……慎重に、起こすと面倒ですよ。」
「その為の“狼”です。性格は少し犬ですが。」
無表情の狼はその言葉を知らぬまま、警戒を崩さず周囲を見渡す。
愁も視線を送ると、狼も目を向け返してくれた。それを見た愁は、思わず口元を緩める。
「ふふ……♪それでは……」
背を向けて撤退しようとする愁に、声がかかる。
「その右腕、大丈夫ですか?」
「ひびが入っているだけです。明日には治りますよ……。」
愁は再び月光の届かぬ闇の中へ消える。
胸の奥には、もう葵と凛の顔を思い浮かべる
気持ちがいっぱいで、任務の残酷さとは裏腹に、心は温かく満たされていた。
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