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第七十六話
深夜。
任務を終えた愁は、玄関の鍵を静かに回し、
外気と共に忍び込むように帰宅した。
足音ひとつ立てず、気配すらも消して。葵と凛を起こさぬように、まるで影そのもののように廊下を進む。
最初に向かったのは凛の部屋だった。
ベッドの上では、寝相の悪さが見事に表れて布団が無造作に捲れている。愁は小さく笑みを浮かべ、その布団をそっと直してやった。
――その瞬間、凛の瞼がぱちりと開く。
「……おかえり、愁ちゃん」
暗がりの中でも小動物のように愛らしい笑顔が、花のようにひらく。
愁は少し驚き、囁くように答えた。
「ごめん。……起こしちゃった?」
「ううん。愁ちゃんの気配なら、わかるよ」
甘やかに響く小声に、愁の胸の奥がふっと温まる。けれど次の言葉は、やっぱりこの子らしい
拗ね方だった。
「もぉ……ボクも連れてってくれてもよかったのに……」
頬をぷーっと膨らませる凛。その仕草に、愁は思わず口元を緩めてしまう。
「……ふふ。凛が行くと、建物ごと粉々になっちゃうかもしれないから」
わざとやさしくからかうと、凛は少しむっとしたように唇を尖らせた。
けれどすぐに「今は大丈夫」と訴える声に、幼い頑張りが滲んでいる。
「そう……じゃあ、次のときは考えてみるよ」
その一言で、凛の顔がふわっと輝く。まるで夜の部屋に小さな花火が咲いたみたいに。
「ほんと?」
「うん。内容によるけど」
その答えすら、凛にとっては嬉しいものらしく、目尻がきらきらと揺れている。
――やっぱりこの子は、素直で、可愛い。
「ぁ……あと、ね……」
「うん……?」
しばらく躊躇った後、凛は小さく声を落として
呟いた。
「……あの、ボクも……愁ちゃんと葵ちゃんと
一緒に寝たいって言ったら、迷惑かな……。
こっちで一人はちょっと寂しぃ……」
愁の胸に、優しい痛みが広がる。
この子はいつだって強がるくせに、心の奥底は
誰よりも甘えん坊なのだ。
「そうだね……。じゃあ、それは葵さんに聞いて
みよう。きっと葵さんも嬉しいと思うから」
「……ほんと?」
「ほんと。ふふ……♪」
凛の顔がぱあっと綻ぶ。照れくささに頬を染めながら、小指を立てて差し出してくる。
「じゃあ約束、ね? 愁ちゃん」
愁は思わず右手を伸ばしかけ――
けれど、躊躇った。
まだ隠しておきたい傷。もし凛に知られれば、
この子は衝動のままに、組織に戻りフードの男を破壊しに行くかもしれない。
愁は静かに手を引き、代わりに左手で凛の柔らかな髪を撫で……
その額に、静かに口づける。
「うん、約束」
「愁ちゃん……♡」
闇の中でもわかるほどに頬を赤らめ、凛は
うっとりと目を細めた。
それはまるで、月明かりに照らされた花びらの
ように儚く、可愛い。
「明日も早いでしょ。……おやすみ、凛」
愁の囁きに、凛は満ち足りたように微笑んで頷いた。
「うん。おやすみなさい、愁ちゃん……」
安らいだ声を背に、愁は静かに部屋を後にする。
脱衣室で静かに服を替え、肩の力を抜く。
玄関から凛の部屋を経てここまで来る間、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつ溶けていく。
向かう先はただひとつ。葵の眠るリビングだった。
足を踏み入れると、薄暗がりの中、ベッドで
横向きに眠る葵の姿があった。
規則正しい寝息と、月明かりを受けて柔らかく
輝く長い黒髪。
その顔はどこまでも無防備で――愁の胸を切なく
温かくさせる。
(……言ったら、怒られるかもだけど……本当……
お姫様……そう……)
戦場では絶対に口にすることのない言葉が、
自然と心にこぼれる。
昼間は真剣な表情で店を切り盛りし、時にお客様のために身を粉に働く葵。
けれどその裏で、甘いドーナツを愁に気付かれ
ないようにこっそり食べる――
そんな小さな秘密さえ愛おしい。
そのすべてが、この眠る顔に宿っているようで。
「……眠り姫、みたい……」
思わず口にした小さな囁きは、夜気に吸い込まれて消えた。
負傷した右腕の痛みさえ、このひとときだけは遠く霞む。
ただ見つめているだけで心が満たされ、幸福で
いっぱいになっていく。
「ぅ……ん……」
寝返りの気配に、愁の身体がびくりと固まった。
だが葵はすぐにまた、すー……すー……と安らかな寝息を立てはじめる。
(……起こしちゃったら悪い……けど……)
そっと身をかがめ、愁は葵の頬に軽く唇を触れさせる。
ほんの一瞬のキス。けれどその一瞬に、抑えきれない想いを込めて。
「……おやすみなさい、葵さん……」
囁くように言ってから、愁は静かにベッドへ潜り込む。
隣に横たわると、体温のぬくもりが布団越しにじんわりと伝わってくる。
その温もりに包まれて、愁の瞼もゆっくりと重くなっていった。
――今夜もまた、幸せな夢を見られるだろう……
そう確信しながら、彼はそっと目を閉じた。
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