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第七十七話

 戦術輸送機は、雲海を切り裂くように夜空を 進んでいた。  コックピットに座る2人のパイロットは、無線と計器に張り付いている。速度・高度・風速―― そのすべてが“人を運ぶ”よりも“戦を運ぶ”ために整えられていた。  だが彼らの視線は、計器だけでなく背後へも 何度も揺れ動く。 そこには、組織内で〈ザ・クリーナー〉と呼ばれる男が座っていた。  漆黒の戦闘スーツに身を包み、狼を模した防毒マスクの奥からは、加工された獣の唸り声のような呼吸音が響く。 『グルルル……』 その低い音が、機内の空気を容赦なく支配して いた。 腕を組み、脚を組み、全身から「機嫌が悪い」 と発しているのは誰の目にも明らかだった。 「……あ、あの、熟山さん?」  おそるおそる声をかけた副操縦士に、マスクの奥から噛みつくような声が返る。 『なにッ?』 「い、いえ、その……まもなく降下予定地点ですので、準備を……」 『ガゥゥ……それは貴方達がハッチを開ければ 済む話でしょう?』 「そ、そうですが……あの、パラシュートは――」 『グルルル……必要ない。』 「ですが――」 『ガルル……それに、私がパラシュートを 使わないのは知っているでしょうッ!』 「……し、失礼しました」  パイロットは肩をすくめ、操縦桿に視線を戻したが、喉の奥に張り付いた緊張は消えなかった。  ザ・クリーナーは、ただ護衛として乗っているのではない。回収部隊すら手に負えない “イレギュラー”に対応する最終処理人。 彼が機嫌を損ねると、機内の酸素までも薄くなる気がするのだ。 だが彼が苛立つ理由は、誰も知らない。 ――実のところ、彼は最近できたばかりの恋人を 溺愛している。 その可愛い彼氏と、もう2週間も会えていない。 (……悠月君のお顔……あぁ、あの頬をこの手で 撫でたい……一緒にご飯を食べて、甘やかして、甘やかされて……。なのに……なんで私は、こんな鉄の棺桶で世界を飛び回っているのでしょう……) 仕事柄、その吐息は獣の唸り声にしか聞こえない。だが胸の内は溜め息の連続だった。  彼の苛立ちを募らせるのは、それだけでは ない。ここ最近、想定外の事態が増えている。 任務中の戦闘特化体に対し、突如として現れる 強襲者たち。 その正体は――明らかに組織の技術を模倣し造られた人間兵器。 銃も刃も持たず、ただ自らの肉体を武器に変えて戦う者。 腕を鋼鉄の槌に、脚を刃のように変質させ、異様なまでの力で襲いかかる。 組織では彼らを《異能体》と呼称している。 これまでの犠牲者は、戦闘特化体、一般兵含め すでに34名。 前例のない脅威に、組織は警戒を強め、最前線を担うことになった――ザ・クリーナーの任務は世界を飛び回るほど苛烈になっていった。 『ガルルル…………』 (あぁ……この役職なんて、暇なのが良いところ だったのに……新人の教育とか……在宅でモニター監視とか……だから悠月君との時間……いっぱいあったのに……あぁ、もう!考えたらまた……) 『……今回の接触者は?』 問いかける声には鋭い棘があった。 「つ、月見 愁です。標的処理後、強襲を受けたらしく、現在は異能者を拘束中とのことです」 その名を聞いた瞬間、マスクの奥で瞳が鋭く光った。 『ガゥゥ!なぜそれを早く報告しないッ!』 「ッ、か、彼に何か問題が……?」 『なんでもないッ!それより、降下地点でしょう、ハッチを開けなさいッ!』 「し、失礼しましたッ!」 パイロットが震える声で応じ、後部ハッチの開放シーケンスを開始する。 重い機械音が機体に響き、鋼の扉がゆっくりと開いていく。 (彼には、大きな借りがあります……彼の為なら……まぁ……それに彼は彼で、悠月君には敵いませんが、可愛いですし……) ――外は漆黒の空。高度六千メートル。吹き荒れる風が刃物のように叩きつける。 ザ・クリーナーは腰にハウリングソード、背に ショットガンを備え、ためらいなく立ち上がった。その姿は、闇夜に佇む死神のよう。 だが胸の奥で、彼は恋人の笑顔を思い浮かべていた。 (……まぁ、まぁいいでしょう。拘束も終わっている様ですし、周囲の警戒と施設までの護衛。 働いてやりますよ。……帰ったら、思いきり悠月君を抱きしめられるのですから……)  彼は後部へと歩み、風が吹きすさぶ夜空へと身を投げ出した。 轟音とともに漆黒の身体が落ちていく。 ガントレットのパネルが起動し、青白い光が戦闘服を走った。 ――姿勢制御完了。 背部のスラスターが咆哮し、漆黒の軌跡が一本の蒼炎の槍に変わる。 はためく腰背面のスカートは、彗星の尾のように夜を裂いた。 彼に恐怖はない。ただ静謐と、正確な計算だけ。 高度1000メートルを切った瞬間、脚部スラスターが爆音を轟かせ、黒煙と砂埃を巻き上げて 着地。 膝を沈めるヒーロー着地とともに、闇夜に黒い花が咲いた。 ――彼がパラシュートを使わない理由は単純だ。 かつて同僚に「着地がダサい」と笑われたことが、プライドを深く傷つけたからである。 「私は空からヒーローのように降りたい!」 と自ら装甲服にスラスターを追加、改造し、 結果的に戦闘力も格段に上がった。 正式採用に至ったのは言うまでもない。 そう、彼は世界を護る“処理人”であると同時に―― 可愛い彼氏を愛し、誰からも「格好良い」と言ってもらいたい、ただの恋する男でもあった。

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