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第八十二話

 “彼”は、自分が何のために生まれたのかを知らなかった。  意識を得た瞬間から、そこは冷たく分厚い硝子の筒の中。ぬるい粘液に浮かび、頭部に接続された装置から、知識や記憶が脳へと注ぎ込まれていく。  人間社会の歴史、文化、戦争の記録――それは まるで膨大な書物を丸ごと飲み込むように。  そして硝子の向こうには人間達がいた。  白衣をまとい、モニターを覗き込み、最初の頃は何か笑い合いもしていたが、それは徐々に減っていき、終盤には怒鳴り散らし、罵倒を浴びせ合っていた。彼はその一部始終を見て、ただ記録し続けた。  やがて彼らは消え、しばらく後。  代わりに別の人間達が現れ、彼の頭には別の拘束具のような機械がはめられた。 そして――視界は暗闇に閉ざされた。 光もなく、音もなく、色もない世界。だが恐怖はなかった。そもそも、彼には「恐怖」という感情そのものが存在しなかった。 ***  ある日、暗闇に映像が流れ込む。  それは誰かの目から見た戦場。街路、路地裏、瓦礫。血しぶきと絶叫。殺し、殺される光景が延々と。彼は自然とその一部始終を観測し、 分析し、改善を思考した。 ――「ここでかわすべきだった」「この間合いで踏み込めばよかった」 やがて、視界を与える「誰か」の動きが、彼の 思考をなぞるように改善されていった。 だが結果は同じだった。死。死。死。 次々に、無数の人間が彼の視界となっては殺され、また新しい目が与えられた。 数十、数百。繰り返される惨劇の中で、視界の 持ち主達はわずかずつ、だが確実に経験を積み 強くなっていった。 弾丸を避け、刃を逸らし、死を遠ざける。  同時に――粘液の中に沈められた彼自身の肉体も、変化を始めていた。 聴覚は研ぎ澄まされ、粘液の中で弾ける微細な 気泡の音を聞き取る。嗅覚は、薬剤の匂いを、 成分を識別する。幾度も身体に針を刺され、注入される液体が血肉を重く、異質に変えていく。 「防弾リキッド注入完了」「これで完璧だ」―― 硝子の向こうの声が彼の耳に届く。 「完璧」とは何のために? 疑問は浮かんでも、答えは与えられない。 *** そして――  彼の視界に頻繁に現れるようになったのは、 「赤い瞳」を持つ存在だった。  白い肌。整いすぎた顔立ち。美の仮面を貼り付けたような者達。  彼らは今までの、どの敵よりも速く、強く、 残酷だった。挑む者達は次々と潰され、斬られ、バラバラに裂かれていった。  彼はその姿を追い、学び、思考の全てを 「赤い瞳」へと注ぎ込んだ。 ――そして、いつしか「超えた」。 彼は心の中で確信した。「殺せる」。 まだ不完全ではあるが、確かに届く。 だが問題はひとつ。 自分ではない。視界を与える人間達―― その肉体が限界だった。 繰り返される敗北。繰り返される死。それでも 挑まされ続けるのは、誰のためか? 硝子の向こうにいる、人間達のため。 そのとき、彼の中に初めて「感情」が芽生えた。 それは憎しみ。否――憎悪。 彼を檻に閉じ込め、視界を与え、無数の命を殺し続けさせた人間……分厚い硝子の向こうの存在。 そして、彼の拳が動いた。 強化された細腕が硝子を叩きつけ、重く低い破砕音が施設全体に響く。分厚い壁が砕け、血の匂いを含んだ空気が流れ込む。  拘束具を外し、久しぶりに直視した人間達は皆、顔を恐怖に歪めていた。 それを見た瞬間――彼の拳は、次々とその顔を叩き潰した。頬骨を砕き、眼窩を潰し、頭蓋を粉砕した。血と脳漿が飛び散り、絶叫が喉から千切れる。 *** やがて施設は静まり返った。 生者の息遣いはなく、床には血が川のように広がっていた。 彼はモニターに触れる。指先に迷いなく、慣れた動作で必要な情報を抽出し、脳へと刻み込む。 血に塗れた別の画面には、白文字でひとつの名が表示されていた。 ――《ファウスト》。 それが、彼に与えられた名だった。 彼の瞳に、血よりも濃い憎悪の色が宿る。 復讐の標的は決まっている。 あの「赤い瞳」。 そして、彼を檻に閉じ込め続けた全ての人間達。

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