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第八十四話

 愁は、ソファに身を横たえた葵をじっと見つめていた。  タオルケットに包まれて眠るその姿は、戦いの 喧騒などまるで関係がないように穏やかで、 少ししっとりした黒髪が頬にかかっている。 愁はその髪に、そっと指を滑らせた。 起こして、寝間着を着せて、凛の眠るベッドまで運ばなければならない。愁は分かっている。 (……けれど、もう少し……。) 撫でる手を止めずに、愁はふと自分の右腕へ視線を落とした。  正体不明のフードの男に攻撃された部位。 今は綺麗に治り、跡すら残っていない。 それでも、あの日の感覚は皮膚の下に深く沈んでいる。 (……襲撃の頻度は確実に上がっている。それに奴らは進化して。いずれ――) そう考えるだけで背筋に冷たいものが走る。  愁はあれから決行された作戦の囮となり彼らと交戦。ある程度の敵拠点の位置を特定出来た。 油断なく立ち回れたので、攻撃を受けることもなかった。 近く、愁も凛も任務が与えられるだろう。現状なら問題はない。  だが、相手は確実に一手ごとに速さと鋭さが増しているのだ。その現実は、愁に「いずれ」という言葉を刻みつけて離さない。 先ほど、ふとその不安が漏れ、葵を悲しませてしまった。 思い出すだけで、胸が締め付けられる。 (反省……)  それでも、奴らの攻撃対象は既に一般人にまで広がっている。決して愁達が手を下す屑共とは違う人間とは違う。  負けられない。愁たちが倒れれば、腐敗を断ち切り、皆が幸せに暮らせる未来は潰えてしまう。 その未来を守れるなら――命を投げ出すことに迷いはない。 けれど、そのときは…… (……葵さん、怒るだろうな……約束、破ることになってしまう……)  横で静かに眠る寝顔が、愁の決意を鈍らせる。 同時に、決意を何倍にも強くする。  矛盾しているはずなのに、どちらも揺るぎなく胸に在る。 「……負けません……葵さんのこと……大好きだから……」 声に出すと、葵のまつ毛が小さく震えた。 「……ん……にゃ……愁く……」 寝言混じりに呼ばれて、愁は微笑む。 「そろそろ、寝間着に着替えて、ベッドに行きましょう、ね?」 「ぅ……ん……でも……あと5分……」 「ふふ……♪仕方ないですね……」  その無防備な甘えに、愁はただ胸を温められる。決してこの顔を涙で濡らすことはない。 その強い誓いと共に、彼の心には一筋の光が差していた。 ――未来を守るために戦う。 そして、その未来に必ず葵を連れていく。 愁はもう一度、そっと髪を撫でた。

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