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第八十九話
愁はキッチンに立ち、静かに包丁を動かしていた。フライパンの上では、ハンバーグが「じゅわぁ」と音を立てながら肉汁を閉じ込め、いい匂いを漂わせている。
片手でトングを器用に動かしつつ、もう片方の手でサラダを盛り付けていく。
教本を一度目にしただけで記憶したレシピどおり、レタスの切り口も乱れず、トマトの断面も艶やか。けれど――
さっき聞いた凛の言葉が、どうにも頭を離れなかった。
「うん♪ みんなジロジロ見てきたし、変なおじさんとかに何回も声かけられたけど……平気♪」
先ほどはそれを聞いただけで、愁の指先がぴたりと止まり、包丁の刃先がまな板に深くめり込んでいた。
(ッ……)
思い出すだけで、めり込んでいた木目を割る
「バキリ」という音が、料理の静寂に不自然に
響く。
愁の赤い瞳に、一瞬だけ冷たい殺意の光が宿る。
(……いや、凛が本当に嫌なら、相手は細切れになっているし……)
だが、すぐに深く息を吐き、気持ちを押し戻した。
(葵さんも、凛も……学園祭を楽しめたみたいだし、今日はそれでいい……)
唇の端が、ふっと緩む。
「ふふ……♪」
無表情で冷血な暗殺者と呼ばれた自分が、
いまこうして笑えるのだ。
「日向」で働き、葵と触れ合い、凛と過ごす――
その日常が、自分を変えてしまった。
完璧に行動しているつもりでも、葵のやさしさや考え、可愛さや美しさに触れると、心臓が高鳴り、呼吸が狂う。思わず理性を外してしまう。
昔は不器用で、幼い凛にやさしくできなかった。けれど今は、甘えられたら素直に応えてやれる自分がいる。
(まぁ、凛には振り回されっぱなしになってる気がするけど……俺は、そんな自分が嫌いじゃない
……けど……)
ハンバーグを返しながら、愁の頬がほんのり熱を帯びた。
思い出すのは学園祭のこと。
――まさか、自分がメイド服を着せられるとは。
しかも、その格好のまま葵の前でしゃがみ込み、布越しに熱をカリカリと撫でて……。
(……俺……あんなこと、してしまって……。
メイド服のせい……?いや、たぶん……葵さんの
気持ちよさそうな、困ったみたいな可愛い表情の……)
頬の赤みは、鍋の熱気のせいにできなかった。
新鮮で面白く、楽しい日々。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思う。
――だが、現実は待ってはくれない。
もう愁と凛の携帯には、新しい任務が届いている。画面に映るのは、日時、座標、そして熱源の数々。
標的らしきリーダーを中心に、異様な数の生体反応。
(そして……今回は単独でなく、かなりの人数で
、こちらからの強襲……。組織がそこまで危惧する標的ということ……)
凛がやけにはしゃいでいたのも、もしかすると
察しているからかもしれない。
最後になるかもしれない日常を、全力で楽しんでいるのだろうか――。
愁の瞳に影が差した、そのとき。
「愁、くん……」
「愁ちゃん♪」
背後から、二人の声が同時に飛び込んできた。
「っ……はい、もうすぐ出来ますか……ら……」
その声に振り返った愁の思考は、次の瞬間に
吹き飛ぶ。
振り返った視線の先に――葵と凛。
凛は、変わらずメイド服のままなのだが――
なんと葵もメイド服――
学園祭で愁が着たメイド服を着た葵が、凛の横に立っていた。
「…………」
愁は一瞬、呼吸を忘れた。
任務も不安も、すべて霞む。
包丁が手から滑り落ち、まな板に「カラン」と乾いた音を立てる。
黒髪を高く結んだツインテール。ほんのりと色を足された頬。
白と黒のフリルに包まれたメイド服。
ミニスカートとニーソックスの間に覗く太ももは、余分な肉を含んだ柔らかさを強調している。
「ど、どう……かな……? やっぱり、似合わない……?」
葵が恥ずかしげに俯き、上目遣いで愁を見つめる。
その視線に、ただ絶句した。
「……なんか、言ってよ。恥ずかしいから……」
葵の小さな声。
美しい、可愛い、麗しい、端麗、沈魚落雁……。
知る限りの言葉を並べても、この光景には到底追いつけない。
戦闘に特化された心臓でさえ、軋むように鳴っている。葵の恥じらいを前にして、愁は
ようやく口を開いた。
「……綺麗……です……」
ようやく搾り出した言葉に、葵の顔がぱっとほころぶ。その笑った顔に、愁はもう沈みかけていた。
「……でも、なんで、それを……」
そこに――。
「ンフフー♪」
凛の軽快な声が割り込んできた。
小柄な体に揺れるフリル、赤い瞳の輝き。
少年らしい華奢さを残しながらも、仕草一つで
全てを小悪魔的に見せてしまう。
今日一日、フリフリの衣装に包まれた可愛い身体を揺らしながら笑う姿を、愁は何度も見てきた。
その愛らしさは“可愛い”という言葉の語源そのものかと思うほど――だが葵の手前、心の中に閉じ込めていた。
「これはね、愁ちゃんへのお返しなんだよ♪」
「おかえし……?」
「そう♪だって、初デートのときプレゼント
くれたでしょ?あれ、すっごく嬉しくて、葵ちゃんにも協力してもらったんだ♡」
凛は、にやりと笑って、嬉しそうで恥ずかしそうな葵を背後から抱きしめ。
「おかえしに……ありがとって気持ち……たっぷりの、ご奉仕……♡」
言いながら、スカートの裾をそっと指でめくり、わざとらしく葵の太ももを露わにして。
「お、おかえしって……あれは……そ、そんなつもりじゃ……」
それに慌てて、視線を逸らす愁。
「やっ……凛くん……愁くんに、見えちゃ……んッ……」
「ね、愁ちゃん。こんなに可愛くなった葵ちゃんと……」
悪戯っぽい赤い瞳で覗き込む凛。
「そして、さらに可愛いボク♪こんな2人に
……ご奉仕、されてみたくない……?」
その仕草に――愁は無言で頷くしかなかった。
***
テーブルに並んだのは、愁の手作りの晩ご飯。
湯気の立つ料理を前にした空気は、いつものようで――まるで違う。
「愁ちゃん、あーん♪」
凛がスプーンを差し出す。愁は反射的に口を開き、口に運ばれたハンバーグを味わった。
「……美味しい……」
「でしょでしょー♪」
頬が赤くなる。その反対側では、葵もスプーンを差し出していた。
「……愁くん、あーん……」
「……ん。美味しいです……」
「っ……ほんと、嬉しい……♡」
二人の笑顔に挟まれて、愁はただ身を縮めるしかなかった。決して自分が作ったとは言えない雰囲気。
熱はすでに隠しきれないほど膨れ上がっている。
「むー……ボクの方が、美味しいよね?」
凛が距離を詰めてくる。肩越しにフリルの胸元がちらり。
「愁くん……僕の方が、美味しかったでしょ?」
葵までもがぐいと近寄り、
「っ……あの……自分で、食べられますから……」
それでも消えかけた理性が抗おうとする。
だが――。
「じゃあ、愁ちゃんはどんなご奉仕がいいの……?」
凛が赤い瞳で射抜く。膝の上を撫でる手。
「ぉ、掃除とか……洗濯とか……」
「それじゃ、つまんないでしょ♪」
凛が笑い、愁の手を自分の太ももに押し当てた。
むちっとした感触に、愁の喉が詰まる。
「ん、好きに触っていいんだよ……愁ちゃんだけ、特別だから……♡」
凛の瞳が甘く細まる。
「そ、そうだよ……」
焦ったように葵も愁の手を取り、その豊満な
太ももの隙間に愁の手を導いた。
「それに、愁くん……お昼のこと……責任、とって……」
熱に浮かされたように言う葵。
愁の呼吸は荒くなり、全身に熱が駆け巡り。
「だったら……ボクの方が先だね♡」
そう言って凛が唇を重ねる。軽く触れたはずの
キスが、愁の心を一瞬で燃やす。
「今夜はボクらが……愁ちゃん、ううん、ご主人様を気持ちよくするから……♡」
にゃあ、と猫のように微笑む凛。
葵は羞恥に震えながらも、その瞳に決意の色を宿していた。
愁はもう抗えなかった。
目の前にあるのは、最も愛しく、最も危険なご奉仕の始まり――。
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